俳句的生活(319)-鴫立庵(7)十八世庵主鈴木芳如(1)ー  

十八世庵主鈴木芳如は、鴫立庵初の女性庵主でした。就任に当たっては多分にピンチヒッター的なものだったと思うのですが、結果としては想定以上の功績を鴫立庵にもたらしたと言えます。そして彼女は何度も茅ケ崎を訪れていて、私が気付いているだけで3か所の寺社に石碑が置かれています。

長福寺  忘れ傘して梅の香が偲ばるる  こちらより
鶴嶺神社 今もなほ朝恵の松の若みどり  こちらより
浄見寺  花守りとならばや月も夜頃とて こちらより

芳如は明治17年6月に、旧大和櫛羅藩主永井信濃守の家臣である俵吉壽の四女として、東京市麹町区下二番町62番地で生を享けています(旧姓:俵よし)。現在の地番では千代田区二番町になる処です。近くには島崎藤村が昭和12年に大磯に移る前に住んでいた家や上智大学・雙葉学園などがあり、番町文人通りと番町学園通りに挟まれた地区です。実家の俵家は西行上人と祖が同じ(俵藤太こと藤原秀郷)と謂われています。18歳の時、写真技師を志し神田小川町の写真館に勤め、明治41年24歳で、写真館の主人の息子である鈴木安二と結婚し、大正元年には虎ノ門に夫婦協業の文具店を開業しています。現在の老舗文具器会社である(株)オカモトヤの前身です(オカモトヤの現社長は芳如の曽孫)。

創業時代の鈴木一家 中央の女性が鈴木芳如(オカモトヤHPより)

芳如の本格的な俳歴は、昭和8年49歳に始まり、ホトトギスの俳人である原石鼎(せきてい)に師事し、ここで鴫立庵十七世庵主である神林時処人(じしょじん)と同人の縁ができることになり、このことが彼女が十八世の庵主となる機縁となりました。時処人は浄土宗の僧侶でしたが、宗寺の命で昭和18年に南京に赴任することになり、その後任者として時処人の推挙を受けることになったのです。

当時、庵主の条件は優れた俳人であると同時に資産家であることも求められていました。時処人が大磯町に提出した推薦文には、ホトトギス直系鹿火屋(かびや 筆者注)派原石鼎(二ノ宮町住)門下の俳人にして既に句集を出版し、充分の実力を有す。人格円満謙虚、鴫立庵維持経営に適する資力を有すと記されています。鴫立庵は大磯町が所有するものとなっていましたが、大磯町だけの財力では維持管理が難しかったのです。入庵式は昭和18年4月17日に行われ、翌18日に高麗山神社を訪れ、

高麗宮の氏子となりし花の中  
西行の御扉とさすや春の雨

と詠んでいます。続いての入庵挨拶状の披露句には、

えらばれて土筆は桶にうかびけり

と詠まれています。この句はつつましくもしなやかな心意気を感じさせます。

庵主就任当初の芳如は、長男が軍務にあり事実上家業(オカモトヤ鈴木商店)を束ねる社長役を代行していたため(夫の安二は昭和12年に死去)、在庵は土・日の二日だけとし、句会は月一回だけ行うことにしていました。六月の句会報に載っている庵主の一句は

白つゝじ散るや沢蟹馴るゝ頃  

となっています。

この頃より芳如は鴫立庵の庵什・器物等の整理に着手しています。7月22日の日記には庵什の処置甚だ届かずして屋根の雨漏りにて殊の外にも損じたるを発見す、今まで観覧者に展覧せしめその後の始末もやゝ怠りたりと見ゆ、心なき人の手もて古書は打ち破られ余りに傷み多ければ、一応曝書して向後は庵主在庵以外は展覧を禁じたりと記し、

虫干しのその品々を悲しめる

と詠んでいます。士族の子女としての教育を受けている芳如の文章はいわゆる擬古文といわれているもので、さながら樋口一葉の文を思い起こします。

同年11月には次男が学徒出陣で入営し、12月の句会報には

出陣の若き血の燃え冬灯散り
星凍てるその中母を見る瞳あり

と二句が詠まれています。更に、

行く年や男手の無き釘を打つ  

の句も12月会報に載っています。

明けて昭和19年、この年には6月にマリアナ沖海戦、10月にレイテ沖海戦があり、この二つの海戦で日本海軍の空母部隊は壊滅し、勝負あったという年です。そうしたことは日本国民には一切知らされず、芳如たちも1月には汁粉を持ち寄っての初句会を行っています。日記には時局下ながら時は春、庵什の新装幅二三を掲げ床の寒菊を席題としてこの年の初会は、寒浪の音も聞えず、軒深きあたゝかさの中に終ったと記されています。

寒菊に入営の子の古りにける  

二月句会の句は

草庵や二月の月の松の闇  

三月は

磯彼岸代々の仏に梅終はる  

5月には平塚の日向丘に吟行を行い、五月句会報には麦田の道、げんげ田は静かな風が渡ります、耕しの人もたんぽゝも、見る目の奥にしみ入ります。雲も丘も森も阿夫利の嶺の淡色もみな初夏との吟行記を載せています。

7月、芳如は初めて句会を欠席しています。それは次男が南方前線に赴く別れの日と重なったためでした。芳如は句会報で主催者みずからの欠席を、良心に咎むることおびたゞしと詫びています。

サイパンを失ったことで、日本本土はB29による空襲範囲となり、7月には東条内閣が崩壊しています。戦局の厳しさに従って、芳如の書く句会報や日記には、なんとしてでも鴫立庵を守り抜こうとする凛とした決意が述べられることが多くなってきます。男手のいなくなった家業のオカモトヤ鈴木商店(現オカモトヤ)を兼ねてでのことでしたから、大変なことであったと想像されます。