俳句的生活(320)-鴫立庵(8)十八世鈴木芳如(2)-
芳如の人柄についてですが、彼女は多くの人を惹きつけ慕われる女性でした。その人柄は大磯郷土資料館に収蔵されている人形からも窺えます。

昭和20年に入って戦局は更に悪化し、江東を焼き尽くした3月10日の東京大空襲の後、芳如は3月末に宮城県丸森町に姉を頼って疎開しています。東京への再度の空襲は5月24日にあって、今度は山の手が標的となり、家業の店舗・工場が焼失してしまいました。幸いにして麻布の自宅は無事で、日本が降伏した8月15日の1か月半後の10月初めに、芳如は東京へ戻って来ています。
翌昭和21年1月、東京の自宅で再会された句会には九人が集まり、参加者の一人が持参した洋蘭を受けての芳如の句は
春蘭の香と吾が恋へる句ともがら
となっています。5月になると1年半ぶりに鴫立庵でも句会が再開され、芳如は庵で一泊、詠んだ句は
五月雨や点てくれし茶のほの甘く
というものでした。この句からは戦争を潜り抜けた安堵の気持ちが伝わってきます。句会報の復刊も1月から始まり、これは昭和47年まで続く月間俳誌「こよろぎ」に発展していくものでした。”こよろぎ” とは大磯の古称です。

昭和21年は5月から7月にかけて、南方に出征していた二人の息子が相次いで帰還し、家業のオカモトヤは二人に任し、芳如はやっと鴫立庵主としての活動に専念できるようになりました。ここからの鴫立庵の復興と行事、事業の発展は目覚ましいものがあります。主だったものを列挙してみますと
* 十七世庵主神林時処人の句碑を建立(昭和22年10月)
* 貞明皇太后の鴫立庵巡覧(昭和24年4月)
* 大磯駅に鴫立庵俳句展を常設(同5月)
* 鴫立庵に佐々木信綱揮毫の西行歌碑を建立(昭和26年3月)
* 芳如入庵十周年記念の俳句大会を開催(昭和28年4月)
*「大磯八景音頭」を作詞、発表(同6月)
* 第一回西行(忌)祭を開催(昭和29年3月)
貞明皇太后の鴫立庵巡覧は、沼津御用邸からの帰路に立寄る形で実現したものです。皇太后と芳如は共に明治17年6月の生まれで当時65歳、芳如がわずか9日早く生を享けているという関係でした。芳如は皇太后から「何卒俳句のためにおつくし下さい」との謝辞を頂いています。鴫立庵にはこの巡行を記念して、昭和28年に貞明皇太后行啓記念碑が芳如句碑(昭和32年)脇に作られました。時間関係からいえば、芳如の句碑を皇太后記念碑の脇に作ったことになります。この時に掛かった費用は、石碑建造と除幕式行事合わせて9万円でしたが、大磯町が負担したのは半額で、残りは寄付と祝儀でまかなっています。最高口の寄付はオカモトヤで、1万円と記録されています。
昭和28年4月29日、十八世庵主鈴木芳如の古希ならびに入庵満十周年記念祝賀の俳句大会が、大磯町地福寺を会場として開かれています。主催したのは芳如入庵以来の鴫立庵社中一同で、その中には茅ケ崎の俳人である三橋松童も入っています。また賓客の一人には、昭和27年に大山古道の吟行を主催した飯田九一が入っていました。この吟行の句碑を長楽寺に建立した時、その除幕式に芳如が招かれているのは、このような繋がりがあったためです。
芳如はまた「大磯八景音頭」という歌を作詞し、久保幸江の唄でコロンビアからレコード発売されています。

久保幸江は芸者経験はないのですが、芸者風歌手として活躍し、「トンコ節」などをヒットさせた歌手です。芳如がこのような活動までしたことには驚きます。
昭和29年には第一回の西行忌が行われました。この時より漸く短歌も鴫立庵行事の一環と位置付けられ、俳句と同じように一般募集がされるようになったのです。講演も行われていて、演題は短歌では佐々木信綱「人としての西行上人」、俳句では荻原井泉水「西行と芭蕉」となっています。新聞記事によると、参会者300人、応募短歌202首、俳句866句にのぼっています。この西行忌はその後西行祭と改称されることとなり、旧暦2月16日の西行の忌日に合わせて、毎年3月の最終日曜日に行われています。令和7年度は3月30日に、午前に式が鴫立庵で行われ、午後は場所を大磯町保健センターに移して、俳句大会と短歌大会が並行して行われるようになっています。
芳如の句碑は昭和32年4月14日に除幕式が行われました。庵主在任中の句碑建立は初めてのことです。句碑には
春の海さゝら波して遠からず
と詠まれています。庵から遠くない小餘呂岐(こよろぎ)の浜には春のさざ波が寄せていることよ、という句意です。西湘バイパスが造られる前の海岸線は今よりもずっと鴫立庵に近かったのでしょう。
昭和37年4月21日、19年にわたって鴫立庵を支え続けてきた芳如の退庵式と、芳如がかねて推薦してきていた十九世庵主山路閑古の入庵式が行われました。

芳如の功績は要約すると、西行と芭蕉の統一、歌と俳句を一体化して、それを鴫立庵の伝統にしたことにあります。鴫立庵といえば西行と俳句、そこに西行祭を積み重ねていくことで、このイメージは揺るぎないものになっていくでしょう。芳如は晩年、短歌の指導を佐々木信綱より受け、連句にも取り組んでいたのでした。
式後には続いて芳如お別れの連句会が催されています。正宗匠:高浜年尾、宗匠:阿波野青畝、脇宗匠:鈴木芳如、連衆には飯田九一も加わっているというメンバーでした。
(鴫立庵の稿了)