鬼を狩る子孫 第十一話 相模川の杭(3)
舟で渡る川
嵐山は、
東の方角から視線を戻した。
「実朝の時代には、
橋はあった。
せやけどな」
少し間を置く。
「江戸の世になってからは、
相模川には
橋は架けられへんようになった」
蓮が、
驚いたように言う。
「ずっと、
渡れなかったんですか?」
「渡れた」
嵐山は、
即座に答えた。
「舟や」
真衣が、
はっとする。
「渡し船……」
「せや」
嵐山は頷いた。
「相模川にはな、
下流から上流まで
六十余りの渡しがあった」
悠夜は、
思わず声を上げる。
「そんなに?」
「せやけどな」
嵐山は続ける。
「一番重要なんは、
東海道をつなぐ
馬入の渡しや」
現在、
その名を示すものは
わずかに残るだけだ。
馬入橋の上流二百メートル。
平塚側の土手に、
説明板と石碑が置かれている。

だが、
実際の渡し場の跡は、
もう残っていない。
「洪水や」
嵐山は、
静かに言った。
「川が暴れるたびに、
渡し場は流され、
場所も変わった」
だからこそ、
馬入の渡しを知るには、
文献に頼るしかない。
「渡し賃は、
十文」
嵐山は、
指を二本立てた。
「今の金で言うたら、
だいたい二百五十円ほどや」
真衣が、
少し考える。
「毎日だと……
結構、かかりますね」
「せやな」
嵐山は頷く。
「せやけど、
橋がない以上、
それが現実やった」
橋は、
便利だ。
だが、
橋は同時に
「軍を通す道」にもなる。
「江戸幕府はな」
嵐山の声が、
少し低くなる。
「相模川を、
天然の防衛線にした」
橋を架けない。
舟で渡らせる。
「それで十分やった」
悠夜は、
川の流れを思い浮かべる。
もし敵が攻めてきたら――
砲撃すればよい。
「でも……」
蓮が、
口を開く。
「将軍とか、
天皇は?」
「そのときは、
別や」
嵐山は、
少しだけ笑った。
「舟をつないで、
船橋を作った」
将軍家茂の上洛。
明治天皇の東幸。
そのたびに、
川の上には
一時的な橋が現れた。
「船を並べて、
板を渡す」
嵐山は、
宙に橋を描くように
手を動かす。

「危うい橋や」
悠夜は、
ふと考える。
「……もし、
戦う気があったら」
「そうや」
嵐山は、
ゆっくり頷いた。
「西郷軍が渡ったとき、
幕府に
本気で戦う意思があったら――
それこそ、
危ない橋やった」
沈黙。
川は、
流れる。
止められない。
だが、
人は
渡り方を選んできた。
舟で渡るか。
橋を架けるか。
その選択の積み重ねが、
この川の歴史だった。
悠夜は、
足元の草を見つめた。
十文銭。
小さな銭一枚が、
人の行き来を決めていた時代。
春や昔
十文銭の
渡しかな
言葉にしなくても、
その一句が、
胸の中で静かに響いていた。


