俳句的生活(327)-茅ヶ崎の俳人(2)田植唄の句

江戸時代、茅ケ崎には24の村があり、村高で最大のものは現在の茅ヶ崎駅周辺を村域とした茅ヶ崎村でした。2番目の村高は萩園村で、面積や戸数では茅ヶ崎村の2割にしかなりませんでしたが、村高はほぼ同じで、このことは農村という視点で見た時、萩園村がいかに突出していたかを物語っています。必然的に村役人層は豊かで、俳句熱も盛んな地域でした。

萩園で最も名の知られた俳人は和田篤太郎という人で、この人のことは既にブログにしています(こちら

このブログには、彼が旅先で詠んで父親に送った田植え唄の句を紹介していますが、本稿では、萩園の俳人で篤太郎の他にも田植え唄を詠んだものがありますので、それらを合わせて紹介することにします。

田植唄はすみて宿に聞へけり  一敬
ともどもに女子田うへやうたの声 青竜
夕くれにひびき渡るや田植唄   泰山

青竜と泰山という俳人は、一敬(和田篤太郎)と同じ月並句合(現在の月例句会)に出ていた人達です。萩園村は二つの旗本領と一つの幕府領に分かれていましたが、村での “結(ゆい)” と呼ばれた結びつきは、同じ領主のもとでのものが格段に強かったですから、篤太郎の生家がある “辻” という地域が幕府領であったことから、同じ句合わせの連衆であった青竜と泰山も幕府領の中に住んでいたものと思われます。

ところで昔の田植えがどんなものであったのか、それは佐々木信綱作詞の「夏は来ぬ」の二番の歌詞から想像することができます。

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

では、田植え唄とはどのようなものであったのか、宮城県北部に伝わっているものを見てみたいと思います。次の唄は昭和16年に採録されたものです。

ござれ来なされ  
はー 二十日ごろト 二十日宵闇 
くー 暗くともト(サーアー ヨイショト)
これから頼むよ箆嶽(ののだけ)さまよ 
良い作取らせて給われよ

この歌詞は、農作業と神への祈りを込めたもので、それぞれの部分の意味は次のようになります。

「ござれ来なされ」
これは「来なさい」という意味で、田植えの作業を始める際の掛け声のようなものです。作業が始まる前に皆を呼び集める意味があります。

「はー 二十日ごろト 二十日宵闇 くー 暗くともト」

「二十日ごろ」とは、田植えを行う日を指し、特に5月の20日前後が目安です。「二十日宵闇(ほかつよいやみ)」は、夕暮れの時間を指し、暗くなり始める時間帯でも作業を続けることを意味しています。農作業では、日の出から日没まで働くことが一般的だったため、暗くなっても作業を続けるという覚悟が表れています。

「これから頼むよ箆嶽(ののだけ)さまよ」

ここでは、「箆嶽(ののだけ)さま」に頼むと言っています。「箆嶽(ののだけ)」は、土地の神様や山の神様を指し、作物の豊作を祈願する意味があります。神様に頼みながら、田植え作業を行うことが重要とされています。

「良い作取らせて給われよ」
これは「良い作物を取らせてください」という願いの言葉で、豊作を祈っている部分です。

全体として、この歌は田植えの作業をしながら、作物の実りを祈り、神様に感謝し、良い収穫を願う内容になっています。田植えの作業において、神聖な祈りとともに働くことが、農民たちにとって重要な儀式だったことが伺えます。

現在、田植え唄というものは、各地の保存会によって守られているというのが実情です。”結(ゆい)” という組織が農村から消えてしまい、また田植え作業も手植えすることがなくなり、田植え唄というものは日常から遠いものとなってしまいました。せめて俳句の上だけでも、情緒を味わいたいものと思っています。

田植唄やみて田上の夏の月  游々子

田植え