俳句的生活(40)-和田家の人々ー

今日ご紹介するのは、堤に移築されている和田家住宅を、萩園に作った和田清右ヱ門さんという人の息子さんとお孫さんのお二人です。息子さんの名前は篤太郎さん(1832-1901)、お孫さんの名前は清さん(1890-1963)といい、二人の関係は、伯父と甥になります。篤太郎さんが生まれてから清さんが死ぬまでの年数は、なんと131年の長きに亘っていて、宰相でいえば、水野忠成(水野忠邦の前の老中首座)から池田隼人までということになります。

篤太郎は、父の清右ヱ門が文久元年(1861)に亡くなって、12代当主となるまでは、諸国を歴遊するという青春時代を送っている。彼は俳人であり、旅先から父親へあてた書簡には、必ずといってよいほどに、句が添えられている。

ふる里のはなし積もるや夜の雪   一敬

一敬とは篤太郎の俳号である。嘉永5年(1852)12月6日付、他郷で送る暮、正月を思いながら、父親にあてた書簡である。旅の宿で創った句には、次のようなものもある。”はすみて”は”弾みて”のことである。

田植唄はすみて宿に聞へけり    一敬

晩年、彼は俳号を竹馬としている。篤を二字に分けたのである。晩年の彼の句で私が好きなのは、次の一句である。半生を振り返り、誇りをもって自分を詩人としているのである。

野渡りの人も詩詠め月今宵     竹馬

篤太郎が特異なのは、江戸の本因坊家から段位を授けられた囲碁の専門家でもあったことである。江戸本所の本因坊秀和に入門し、嘉永元年16歳で初段を許され、秀和と3子で対局している。棋聖と謳われた兄弟子の秀策とは矢張り3子で、9度対局していて、篤太郎の4勝5敗となっている。嘉永3年には2段となり、明治8年の囲碁段附けには3段と記録されている。明治になってからの本因坊家は悲惨であった。旧幕時代の家禄50石はなくなり、名人碁所を開けないまま、秀和も明治6年に亡くなったからである。囲碁界は、明治中頃より、秀甫、秀栄の力により復興していくのだが、萩園に戻り、父の跡を継いで名主となってからは、本因坊家との交流記録は見られず、囲碁専門家の道からは遠ざかったようである。

篤太郎の次に家督を相続したのは、弟の節三郎である。この人は経営感覚に秀でていて、明治以降の和田家を盤石のものとした。この人の息子が清である。祖父の清右ヱ門からの一字で、清(せい)が本名である。彼は、一高から東大に進み、東洋史学を専攻し、昭和8年に東大教授となっている。当時の日本は、満蒙は日本の生命線だとして、日露戦争で獲得した権益擁護のため、大陸進出に深入りしていくのだが、彼は権力に迎合することなく、正義を貫いていった。満州事変のあと、北京の故宮の品物は、北京に置いたままでは危ないということで、南京に移されるのだが、日支事変が始まった直後に南京も陥落して、故宮の物品は日本軍に抑えられることになった。清はそれは正しくないと主張して、蒋介石側に渡すよう尽力したのである。それらは重慶に移り、戦後の国共内戦を経て、今、台湾の故宮博物館に収められている。彼は昭和34年に脳血栓を起こし、昭和38年に肺炎で死亡した。72歳の生涯で、萩園より学者となった最初の人である。

萩園の和田家であるが、建坪68坪で、大黒柱をはじめとして、全ての柱は欅で、堅牢そのものの造作である。昭和57年まで、5代120余年にわたって居住されてきた。税や維持費の問題があったのであろうが、萩園に残し続ける方策はなかったかと、つい思ってしまうのである。

盛り崩す碁石の音や白障子

大正初年の和田家の人々
「和田篤太郎日記」より