鬼を狩る子孫 第十一話 相模川の杭(2) 

夕月夜

川の姿は、
どこにもなかった。

 畑と住宅の間を抜けた先に、
わずかに地面が盛り上がった一角がある。
周囲より、
ほんの少し高い。

 嵐山は、
その微妙な高まりの上で足を止めた。

「ここや」

 水はない。
 川音もない。

 それでも、
この場所だけは
不自然に乾いている。

「自然堤防や」

 嵐山は言った。

「洪水のたびに土砂が積もってできた。
 川が流れとった証拠や」

 真衣が、
周囲を見回す。

「でも……
 相模川って、
 もっと向こうですよね」

「今は、な」

 嵐山は、
少し東を指した。

「鎌倉の頃は、
 あの辺りを
 本流が流れとった」

 悠夜は、
頭の中で地図を重ねる。

 今の相模川。
 江戸期の旧流路。
 そして――
さらに古い、
鎌倉初期の流れ。

「実朝の時代、ですよね」

 蓮が、
確かめるように言った。

「せや」

 嵐山は頷く。

「実朝はな」

 少しだけ、
声を落とす。

「和歌の将軍として有名やけど、
 あれは机の上の遊びやない」

 蓮が顔を上げる。

「『金槐和歌集』に残っとる歌は、
 ほとんどが実体験や」

「じゃあ……
 ここにも?」

「来とる」

 嵐山は即答した。

「鎌倉から相模川までは、
 騎馬で十五キロほど。
 将軍にとっては、
 ちょっとした外出や」

 頼家も、実朝も、
この川で舟に乗り、
水を渡り、
月を眺めた。

「そのときの歌や」

創作小説の挿絵

 嵐山は、
川のあった方角を見たまま続ける。

 相模川といふ川あり、
 月さし出でて後、
 舟にのりてわたるとて――

「夕月夜(ゆうづくよ)
 さすや川瀬の
 水馴棹(みなれざを)
 なれてもうとき
 波の音かな」

 誰も、
すぐには言葉を発しなかった。

 月。
 水面。
 棹。
 波の音。

 それだけで、
川の情景が立ち上がる。

「……きれいですね」

 真衣が、
小さく言った。

 嵐山は、
もう一度東を指した。

「関東大震災のとき、
 田んぼの中から
 突然、
 橋脚が出てきた場所がある」

 悠夜は、
はっとする。

「旧相模川橋脚……」

創作小説の挿絵

「そうや」

 嵐山は静かに続ける。

「年代測定では、
 鎌倉幕府が開かれた頃と合う。
 頼朝や実朝の時代やな」

 真衣が、
首をかしげる。

「じゃあ……
 本当に、
 頼朝が渡った橋なんですか?」

 嵐山は、
すぐには答えなかった。

「そこが、
 まだはっきりせえへん」

 橋脚は、
南北に並んでいる。

 すると、
川は東西に流れていたことになる。今の本流は南北に流れとる。

 それに、
 規模も小さい」

 嵐山は、
かつての馬入橋を思い描くように言った。

「馬入橋本体やとしたら、
 ちょっと釣り合わへん」

 沈黙。

 悠夜は、
草の間から伸びる微高地を見つめた。

 だが今、
その川は、
彼らの足元にはない。

 残っているのは、
流れ去った水の記憶と、
橋の脚だけだ。

 それが、
本流を跨ぐ橋だったのか。
支流に架けられたものなのか。

 あるいは――
人が後から
意味を与えたものなのか。

 相模川は、
まだ答えていない。