俳句的生活(325)-茅ヶ崎の俳人(1)小澤白羊ー

江戸時代も中期を過ぎると、茅ケ崎のような農村地帯にも、村役人層を中心に文芸、ことに俳句を学ぶということが盛り上がってきました。その中でも赤羽根で代々名主を務めた小澤家は、天明・寛政・文政期にかけて家族全員が歌人ならびに俳人であるという、特筆すべき家柄となっています。

”鴫立庵三世鳥酔” の稿(こちらより)で少し触れましたが、鴫立庵は相模俳壇を指導する地位にあって、小澤家の白羊という人が鳥酔の門弟となっています。

小澤白羊の俳句系譜
白羊の俳句系譜

白羊(文化十年(1813)没)は戸塚宿の中出氏の出で、小澤市左衛門(天明九年(1789)没)に嫁いだ女性、本稿でも取り上げた茅ケ崎の女流歌人村野もと子(こちらより)の母親です。赤羽根には宝積寺という、小澤家が造ったお寺があります。本堂の裏には小澤家の多数の墓がありますが、その一角に市左衛門の家族の墓石が置かれています。白羊の墓も並んでいます。

白羊の墓
白羊の墓(右から二つ目)

白羊の墓は風化・落剝がひどく、文字は読めないまでになっています。墓石の左側に句が刻まれていますが、資料に頼らなければ読み取れない状態です。

われに足るひと木のかげや簟(たかむしろ)

この句は、一本の木の下にむしろを敷いて憩をしている自分は、シンプルで穏やかな自然の中に、十分な満足を感じているよ、と詠んだものです。

白羊には「如月集」という句集が遺っています。次はその中の一句です。

明け来ぬと峰のむら松時雨けり

この句は、夜明けを待つ静かな時間の中で、峰の松に降る時雨の風景を描いたものです。時雨は季節の移り変わりを感じさせ、何かが過ぎ去りつつある寂しさを象徴するもので、時雨を通して夜明けが来るのを待つ、静寂で物悲しい瞬間を捉えた句となっています。

宝積寺では若い住職さんと話をすることが出来ました。住職さんに依ると、小澤家は甲斐の武田の遺臣で、武田滅亡後にこの地に移って来た一族とのことです。信玄の息女に、織田信忠と婚約した松姫という姫様が居て、小澤新兵衛という武士が仕えていたという記録があります。松姫は武田が滅亡したとき八王子に逃れ、その後家康の庇護を受けていますので、その時に付き従ったのかも知れません。