俳句的生活(124)-女流歌人ー

先日、作家であり尼僧でもある瀬戸内寂聴さんが、お亡くなりになりました。同じように、女性の歌人であり、晩年に尼僧となった人が、茅ヶ崎にいました。寂聴さんより150年早く生まれた、小沢もと子という人です。

もと子の家は、赤羽根村で代々名主を務めたところで、大山街道に近く、両親が俳人であったことにもより、太田南畝などの江戸からの文人が、多くもと子の家に立ち寄っていました。もと子はそうした文化的な環境で育ち、成人してから和歌の道に入りました。

もと子の歌の師は、賀茂真淵の門下の加藤千蔭という国学者でした。江戸町奉行の与力の家に生まれた人で、国学者である一方、彼自身も与力や、田沼意次の側用人を務め、兄弟弟子には本居宣長がいます。

千蔭の歌風は、師の真淵や兄弟弟子の宣長の万葉調とは異なり、古今和歌集前後の時期の和歌を理想とした高調典雅なもので、もと子には、国学的なものと、古今調的なものが同居した歌風が伝わっています。次の和歌は、もと子の代表作で、赤羽根の宝積寺(ほうしゃくじ)の歌碑となっているものです。

長閑なる雨の名残の露なるに おりてかざらん山桜花

全体の調子は典雅なものですが、下の句は、大和心を謳った本居宣長の和歌を連想させるものとなっています。

もと子は50歳をすぎて仏門に入り、一貞尼と称し、詠歌だけに専念する暮らしに入りました。仏門に入って10年がたった天保6年(1835年)に、「花の名残」という歌集を刊行しています。恋の歌が七首ほど入っていますが、どれも恋のはかなさを嘆いた歌ばかりで、仏門に入った動機を推測させます。次の歌は、山桜花の歌と同じく、宝積寺の歌碑に刻まれているものです。

空に立つうき名を何につつままし おほふ計の袖しなければ

宝積寺は、その開祖が小沢家の祖先といわれている寺ですが、小沢家が歌碑を宝積寺に収めるとき、歌の選定は、親しくしていた俳人に頼んで、上の二首を選んでもらったとのことです。

境内に菰の香ぐはふ冬構

小沢もと子の歌碑
小沢もと子の歌碑
宝積寺