俳句的生活(311)-鴫立庵(4)三世庵主 白井鳥酔
三千風によって再興された鴫立庵は、彼の死後、再び危機の状態になりました。三千風の後を継いだ二世庵主朱人は、活動の記録がほとんど残っておらず、朱人没後33年、漸く三世として庵主となったのが白井鳥酔という人物です。
彼の出自は旗本で、父親は代官を務めるという家柄でしたが、彼はそうした家風に馴染めず、24歳の時に家督を弟に譲り、俳諧の道に進んでいます。
彼の生まれは元禄十四年(1701年)で、芭蕉死後7年を経ていました。当時俳界は、芭蕉の高弟であった宝井其角といった人たちが君臨する状態になっていたのですが、彼ら芭蕉の後継者たちは蕉風そのままの後継者とはならず、其角についていえば、彼の俳風は “軽妙” “洒脱” “ユーモア” “都会的” なものになっています。そこまでは良いのですが、問題は其角の弟子たちからで、俳諧宗匠と呼ばれた彼らの俳風は “形式的” “表面的” “遊戯的” “営利的” なものへと変貌していき、皮肉ではありますが、それが町人からの人気を得て俳諧の主流となり、明治の子規による俳句改革まで続きました。
鳥酔らのグループは五色墨派と呼ばれていて、宗匠俳諧には批判的で、蕉風の持つ “文学的” “精神的” な深みに戻すことを目指しました。幸いなことに鳥酔は多くの門人を持ち、彼らが鳥酔のあと鴫立庵の庵主となり、幕末まで五色墨派の系譜を繋いでいます。
鴫立庵の鳥酔の句碑には次の句が刻まれています。
大島や波に寄せたる雪の船 白井鳥酔
「雪の船」は、雪に覆われた船を意味します。雪に覆われた船は、静かで孤独な存在として、冬の冷たさや厳しさを象徴しています。また、波に寄せられている船の動きが、無常や人生の儚さを暗示しているとも捉えられます。
句碑には鴫立澤一世と刻まれていますが、これは石碑が造られた当時、鳥酔は鴫立庵の中興の祖としての敬称を受けていたことに依るものです。
鳥酔の相模における門弟の中には、茅ケ崎の赤羽根の名主であった小沢家の妻女が含まれています。小沢白羊という女流俳人で、小沢家の文化的な血筋は女流歌人である娘(小沢もと子)にまで引き継がれています。鴫立庵は相模の俳壇で大きな力を持っていたのでした。もと子についてのブログはこちらより。