俳句的生活(302)-更科紀行(5)浅間山ー
更科紀行で最後となる句は、浅間山を詠んだ次の句です。
吹き飛ばす石は浅間の野分かな
更科紀行での日付ではっきりしているのは
* 8月11日 美濃出発
* 8月15日 姥捨ての句
* 8月下旬 江戸到着
の三つだけで、この句は8月20日頃に詠まれたと推測されます。野分で吹き飛ばされる石というのは、浅間山の噴火で地表に溜まっていた軽石のことで、ちょうどこの時期に台風が北信を襲ったのか、あるいは芭蕉が地元の人の話として聞いただけのものなのかは不明です。

江戸時代、小諸近辺には浅間三宿と称された三つの宿場がありました。木曽方面からみて、追分宿、沓掛宿、軽井沢宿 というものです。沓掛という地名は現在では「中軽井沢」となっています。軽井沢という名称を使った方がステータスが上がると地元の人達が考えての所作でしょうが、昔の地名をなくすことは残念なことです。
浅間山の煙りは浅間三筋と称されていて、小諸馬子唄には次のような歌詞で取り込まれています。
小諸出てみよ
浅間の山に
今朝も煙が
三筋立つ
また浅間三筋は、長谷川伸の戯曲『沓掛時次郎』を基に佐伯孝夫が作詞し、1961年に橋幸夫が歌って大ヒットした「沓掛時次郎」には次のように詠まれています。
すねてなったか 性分なのか
旅から旅へと 渡り鳥
浅間三筋の 煙の下にゃ
生れ故郷も あるっていうに
男 沓掛時次郎
このヒット曲は大映で市川雷蔵主演で映画化もされています。中軽井沢には長谷川伸の戯曲を記念して、次のような石碑が作られています。


芭蕉が浅間三宿のどれかに宿泊したのか、あるいは素通りして碓水峠へと急いだのかは不明です。江戸に戻った芭蕉は、早くも9月13日、山口素堂ら親しい友人を芭蕉庵に招き、句会を催しています。
木曽の痩せもまだなほらぬに後の月
苛酷であった木曽の旅から江戸に戻り、ほっとしている芭蕉の心情が窺われる句となっています。この時から半年後の元禄二年三月には、早くも次の旅に出立します。奥の細道です。
次のものは今私が参加している連句の発句と脇で、発句の句座の “歌舞伎めく” を引き継いで、脇では、浅間三筋の下を馬子に曳かれて進む化粧馬を詠んでみました。
発句 名水に映ゆる紅葉も歌舞伎めく つよし
脇 浅間に惚れる化粧した馬 游々子
(この稿終了)