俳句的生活(301)-更科紀行(4)姨捨の月ー
2024年の仲秋の名月は9月17日で、私がそれを鑑賞したのは茅ヶ崎ででした。翌18日は十六夜の月、翌々日の19日は立待ちの月で、今年の関東地方では三夜とも隈なく空に現れました。
貞享五年八月十五日夜、芭蕉は更科(現千曲市)に到着し、念願の姨捨の月を眺めることが出来ました。美濃から更科までの約200kmを4泊5日で踏破したことになります。
芭蕉は、十五日の名月を
俤(おもかげ)や姨(うば)ひとり泣月の友
十六夜の月を
いざよひもまだ更科の郡哉
と詠んでいます。名月の句は、古今集に詠み人知らずで収録されているわが心なぐさめかねつ更級や姥捨山に照る月を見てを踏まえたものです。芭蕉が江戸に戻って記したものに「更科姥捨月之弁」というものがありますが、芭蕉はここで「なぐさめかねし」といひけんもことわりしられて、そゞろに悲しきに、何故にか老たる人を捨たらんと思ふに、いとゞ涙も落そひければ、と記しています。
この句で注目しなければいけないのは下五の ”月の友” という箇所です。この意味は「更科姥捨月之弁」に記されているように、古今集の和歌より姨捨伝説に思いを巡らせている自分をみつめ、それを ”月の友” と表現した点です。これは単に月を下句にもってくるよりも、自分をそこに据えることによって、味わい深いものに句を高めているのです。
ところで、田毎の月というと、棚田の一枚一枚の田に月が映っていることを言い表したものと解釈されています。広重が浮世絵でそのように描いたことから流布したものと思われます。
ところが実際はそのように映ることはあり得ないことで、一枚の田一箇所だけに月は映っています。理科的に考えても当然のことですね。田毎の月というのは、畦を歩いて視線を移動させたときに、月を反射する田が移動していくことを言ったものなのです。
蕎麦の花田毎に白く後の月 游々子