俳句的生活(290)ー芭蕉の詠んだ京・近江(14)二度の名月ー
元禄四年は閏年で、八月が二度ほど暦のなかに組み込まれました。二度目の八月は閏八月と呼ばれています。仲秋の名月が1年に2度生じた年です。次に旧暦で閏八月が出来るのは西暦2052年となっています。
そもそも閏月はどのようにして決められるのかは興味あるところです。次の図は24節気を地球の公転軌道で表現したものです。
地球の公転軌道を15度づつに24等分し、春分、夏至、秋分、冬至は実際のものに合わせています。これが旧暦を太陽太陰暦といったときの太陽暦の部分に当たり、農耕ではこの24節気が暦として利用されてきました。月の満ち欠けを基にした太陰暦というのは、1か月が約29.5日ですから、12か月では約354日となり、太陽暦の1年に対して約11日足りないことになります。そこで3年に1度(19年に7度)の割合で1か月を足し増しにする調整を行ったのです。
では、閏年においてどの月を閏月として挿入するかですが、先ず春分、夏至、秋分、冬至の24節気は必ず2月、5月、8月、11月の中に収めるという原則が定められました。そしてなるたけ月と季節感に大きな乖離が生じないように挿入していったのです。例えば閏月を4月としたとき、5月が夏に近づきすぎて五月雨との乖離が大きくなる場合は、5月以降の別の月を閏月としていったのです。
このようなことより、元禄四年の芭蕉は二度の八月に、二度の名月の句会を催しています。一度目のものは後世に虚子らによって「三夜の月」と呼ばれているもので、八月十四日から十六日まで膳所や堅田で門弟たちとの句会を楽しんでいます。本稿(4)こちらより。
閏八月の句会は吟行で、先月の名月の句会に参加した門弟3人と石山寺に詣で、ついで瀬田川に舟を浮かべて月見をしています(八月十八日)。
名月はふたつ過ぎても瀬田の月
句意は、名月を2回堪能したあとでも、瀬田の月は素晴らしいものであるよ、というものです。瀬田は「瀬田の夕照」として近江八景の一つとなっていて、江戸時代は湖南の名勝地でありました。
芭蕉は、木曽義仲に思いを寄せ、無名庵も木曽塚と呼ばれていた義仲寺に作られたものです。瀬田川は義仲が源範頼・義経軍と戦い、その防御線を突破された川でもありました。