俳句的生活(281)-芭蕉の詠んだ京・近江(4)三夜の月ー

芭蕉が生涯で詠んだ句の総数は980句で、そのうちの1割は ”月” を詠んだものとなっています。俳句の世界では、旧暦8月15日の前後に連続して月を詠むという ”遊び” が江戸の頃より行われていました。それが三夜続いた場合は、”三夜の月” と呼ばれていました。芭蕉は ”三夜の月” を2回ほど行っています。1回目は1688年(貞享5年)更科(現千曲市)で仲秋の名月を初日にして3日間、2回目は1691年(元禄4年)琵琶湖畔で仲秋の名月を挟んでの3夜となっています。

元禄四年8月、芭蕉は義仲寺の草庵(無名庵)に滞在していました。三夜の月は次のようなものです。

* 8月14日 大津、門弟の楚江宅で待宵の句会
* 8月15日 義仲寺で仲秋の観月句会
* 8月16日 堅田で十六夜の観月句会

8月15日の夜は、無名庵で月見の句会を催し、酒が廻り午前3時を過ぎたころ、一座は湖上に船を漕ぎ出し、この夜顔を見せなかった弟子の家を訪ねるという ”ヤンチャ” なことをやっています。芭蕉がこの時創った句は、

三井寺の門敲かばや今日の月   (元禄四年八月十五日 芭蕉48歳)

というものです。この句は中国の詩人の ”僧は敲く月下の門” というフレーズを踏んだもので、三井寺の塔頭が月光の中に聳えるを湖上より眺め、一杯機嫌の連衆に、さあ、おのおの方、我らもこの名月に三井寺の門を敲こうではないか、と興じたものです。

翌16日は十六夜の月、この日も芭蕉たちは夜船を出して、堅田の門弟を訪れています。夕暮れの裏庭に船を漕ぎ入れ、「酔翁酔客が月にうかれてやってきたよ」と大声で叫ぶと、亭主は驚き喜んで、「芋や豆があります。鯉や鮒の刺身もあります」と、岸辺に莚を敷き、宴を始めたのでした。

この夜に芭蕉が詠んだ句は、

安々と出でていざよふ月の雲  (元禄四年八月十六日 芭蕉48歳)

十六夜の月というのは中々出てこないものだが、今夜は何のためらいもなく出てきたことよ、という句です。月の出は、月が地球の周りを西から東に向かって、1か月かけて1周しているので、1日で12度東にずれていきます。そうすると、太陽との関係は15度で1時間ですから、約50分遅れていくことになっています。

この夜の別の句は、

錠明けて月さし入れよ浮御堂  (元禄四年八月十六日 芭蕉48歳)

芭蕉句碑
錠明けての句碑

浮御堂とは、平安時代の長徳年間(995-998年)に比叡山横川の僧源信によって作られた御堂です。長徳年間とは、今NHKの大河で放送されている藤原道長の長兄の道隆が関白だった時期で、疫病が流行っている時代でした。源信は阿弥陀如来像を千体作り、御堂に安置していたのですが、芭蕉がこの夜訪れたときには錠が掛かっていて、中を拝めませんでした。芭蕉はこの明るい月光を、扉を開いてさし入れよ、と詠んだのです。

浮御堂
浮御堂の千体仏
浮御堂の千体仏

源信は往生要集を著した人で、日本での浄土教の元祖と言われています。源氏物語に出てくる横川の僧都はこの源信がモデルとされています。堅田はまた、近江八景の「堅田の落雁」でも有名な風光地でした。

堅田の落雁

高浜虚子は、芭蕉のこの「三夜の月」を意識して、明治37年に「四夜の月」を敢行しています(こちらより)。虚子についてですが、この浮御堂の沖には昭和27年に、堅田ホトトギス会が建立した湖中句碑というのが造られています。句は ”湖もこの辺にして鳥渡る” というものです。

浮御堂沖の湖中句碑
浮御堂沖の湖中句碑

この句碑は一度、水上ボートの衝突を受けて壊れるのですが、再建されています。また句は虚子の筆によって軸となっていて、ホトトギス系の俳句結社「未央」の主宰をされている方の実家の床に掛けられているとのことです。

湖中句碑の軸になったもの
虚子筆の軸(未央HPより)