俳句的生活(291)-芭蕉の詠んだ京・近江(15)菊の酒-

元禄四年は閏年で、八月に閏八月が挿入されたので、陰暦での閏八月以降が1カ月だけ冬の方向にずれて、西暦との対応は次のように差が開くことになりました。

元禄四年8月15日ーー>西暦1691年9月7日 差は23日
元禄四年閏8月15日ー>西暦1691年10月6日 差は52日
元禄四年9月9日ーーー>西暦1691年10月29日 差は50日

九月九日は重陽の節句、奇数月の月と日の数が同じとなる最後の節句です。古来中国では九という数字が一番大きな数字として崇められてきていて、例えば囲碁の世界ではかっては九段というのは名人であって、それ以上の段位は存在しないものとされていました。本因坊秀策の師匠である本因坊秀和は、幕府が瓦解したことによって名人にはなれず、実力は名人レベルでありましたが、段位は八段のままで終わりました。

本因坊秀和像
本因坊秀和象(日本棋院)

重陽の節句は中国由来の行事で、日本では平安時代に貴族の宮中行事として取り入れられ、源氏物語でも描かれています。江戸時代においては五節句の中で最も重要な節句となっていましたが、現代では最も影の薄い節句となっています。現代の大人の男性にとって酒を飲む機会はいくらでもあり、ましてや菊の酒で長寿を願うという風雅なことは文化から消え失せてしまったのです。

重陽の節句での舞
重陽の節句での舞(京都城南宮)

だからという訳ではありませんが、個人的にはこうした文化を継続していきたいという気持ちは強く、今は禁酒を続けている身ですが、9月9日には信州の山小舎で菊酒を味わってみたいと思っています。

菊酒

芭蕉は仲秋の名月の後も 木曽塚(義仲寺)の無名庵で一人暮らしを続けていますが、重陽の節句の日には 門弟の一人である河合乙州(おつくに)が樽に酒を携えて訪ねてきました。乙州は大津藩で伝馬役を務めていた運送商人で、姉と共に芭蕉への支援を惜しまなかった人です。本稿(5)で紹介した人に家を買はせて我は年忘れの句で詠まれた門弟で、芭蕉は度々乙州の家を訪れて世話を受けています。(こちらより)

草の戸や日暮れてくれし菊の酒  (元禄四年九月九日 芭蕉48歳)

この句は中句に ”日クれてクれし” と 二つの ”く” を入れて 重陽の日に掛けています。酒を持って来てくれた乙州へのサービス精神が現れた挨拶句となっています。

供華とする花も今宵は菊の酒  游々子