鬼を狩る子孫 第二部・過去編 第一章 丹後の若侍(9)

第9回 名を呼ぶ声

 山道の一件は、思いのほか早く広まった。

 「三人を相手に、斬らずに追い払ったらしい」

 城下の市で、そんな声が聞こえた。

 朔太郎は黙って、干し魚を眺めていた。視線を合わせぬように。

 「若い侍やて」

 「いや、どこぞの家の者やろ」

 「顔、見たことある気ぃする」

 噂は、形を変えて歩く。

 朔太郎は、金を置き、振り返らずに市を抜けた。


 村はずれの小さな堂の前で、足を止めた。

 水を飲もうと腰を下ろしたとき、声がした。

 「お前さんやな」

 振り向くと、薪を背負った年嵩の男が立っていた。

創作小説の挿絵

 目は穏やかだが、油断はない。

 「山で騒ぎを収めたんは」

 朔太郎は、否定も肯定もしなかった。

 男は、ふっと鼻で笑った。

 「刀、抜いとったやろ」

 沈黙が、答えになった。


 「斬らんかったそうやな」

 その一言に、朔太郎は目を上げた。

 「斬れば、楽やったろに」

 男は、堂の柱にもたれた。

 「せやけど、斬らんかった」

 しばしの間、風だけが通る。

 「霧村か」

 不意に、その名が落ちた。

 朔太郎の胸が、わずかに動く。

 「親父さんも、似たようなもんやった」

 「……知っているのか」

 「知っとるとも」

 男は、薪を降ろした。

 「城にも村にも、きっちりは属さへん家や」

 「けど、山が荒れたときは出てくる」

 「鬼退治や、なんて言うてな」

 男は、少しだけ目を細めた。


 「鬼なんぞ、おらん」

 朔太郎は、言った。

 声は、思ったよりも低かった。

 男は首を傾げる。

 「おるかどうかは知らん」

 「せやけどな」

 「人が人やなくなるときはある」

 「そのときに出てくるんが、お前らや」

 朔太郎は、言葉を返せなかった。


 「霧村はな」

 男は続ける。

 「昔から、ちょいと変わっとる」

 「鬼にさらわれた先祖がおる、とか」

 「鬼を斬る家や、とか」

 笑い飛ばすようで、笑ってはいない。

 「子どもらは、そういう話が好きや」

 だが、その目は真剣だった。


 「わしは、鬼がどうのとは言わん」

 「せやけど」

 男は、薪を担ぎ直す。

 「山が荒れるときは、何かが動いとる」

 「気ぃつけなはれ」

 朔太郎は、黙って頷いた。


 男が去ったあと、堂の前は静かになった。

 霧村。

 その名を、他人の口から聞いた。

 逃げ場が、また一つ減った気がした。

 鬼にさらわれた先祖。

 その話は、子どもの頃に聞いたことがある。

 与太話だと思っていた。

 だが、いまは違う。


 夕暮れ、朔太郎は再び山を見た。

 霧は出ていない。

 だが、影はある。

 霧村の名が、土地に残っている。

 ならば、血も残っている。

 一人では足りぬ。

 それは、戦ってみて分かった。

 刀は振れる。

 だが、鬼を狩るには、まだ遠い。


 朔太郎は、決めた。

 山を越える。

 丹波の中を、まず探す。

 霧村の血を引く者を。

 そして、自らを鍛え続ける。

 鬼が息を吹き返すなら、

 その前に立つ者がいる。

 それは、自分だ。