鬼を狩る子孫 第四話 保護者会の罠(14)

崩れる虚像

教育委員会の会議室には、朝の光がやわらかく差し込んでいた。壁際の時計の針が、一定の間隔で静かに時を刻んでいる。窓の外では新緑の葉が揺れ、遠くでカラスが鳴いた。

委員長が眼鏡を外し、低い声で告げた。

「本日の審議は、鏡ヶ淵地区の開発に関する教育的見地からの検証についてです。」

前列には校長と教頭、そしてPTA会長夫妻。その少し離れた一角には、参考人席に座る嵐山の姿があった。

委員長が書類をめくりながら言った。

「校長の答申によると、“現地の水脈は枯渇状態で地盤は安定” とあります。しかし、同時期に環境保全課の報告では “湧水流出の再発” が確認されています。この点、どのように説明されますか?」

PTA会長の夫・榊原が小声で校長に囁いた。

「先生、予定どおりに言えばいい。すぐに収まります。」

校長はうなずき、ややかすれた声で答えた。

「ええ、その……まず、誤解があったのかもしれません。私としては、地域の皆さんの安全と利便性を第一に考え、“開発は教育環境に支障を及ぼさない” という立場から、誠意をもって答申をまとめたつもりです。ただ、結果的に一部の表現が誤解を招き、多くの方々に心配とご迷惑をおかけしたことを、深く反省しております。」

会場の空気がわずかにざわついた。委員の一人が首をかしげる。

「つまり、記述の誤りは “誤解” ということですか?」

校長は一瞬目を伏せ、言葉を探すように息を吸った。

「はい……決して、虚偽を意図したわけではございません。むしろ、真摯に……いや、誠実に取り組んだ結果、そう受け取られたのかもしれません。」

そのとき、委員長の視線が横に移った。

「嵐山先生、参考人として一言お願いできますか。

嵐山がゆっくり立ち上がった。

創作小説の挿絵

皺のある背広の袖を整え、嵐山は机の前に進み出た。

「わたし、地質の専門やないんですが…… “見えない水” いうのは、鎌倉ではようある話でしてね。地下に通っとる水脈を “枯れた” と書いた人、だいたい長靴を履いてへんのです。会場の何人かが吹き出した。嵐山は少しだけ笑い、続けた。

「でね、うちのかみさんがまた言うんですわ。“濡れてない靴で『雨は降ってへん』て言う人ほど信用ならん” って。――まさに、そういう話ちゃいますか。」

委員たちの間に柔らかな笑いが広がり、空気が一変した。PTA会長夫妻は目をそらし、校長の顔色が静かに変わった。

嵐山は淡々と続ける。

「地面は正直です。人が書類で塗りつぶしても、土は覚えとる。あとは、だれが耳を澄ますかだけの話です。」

委員長が小さく頷いた。

「ありがとうございました、嵐山先生。」

嵐山は席に戻るとき、校長の前で一瞬立ち止まった。

「先生、えらいご苦労やったと思います。でもね、書類いうのは “自分を守る盾” にもなるけど、ほんまは “自分を映す鏡” なんですわ。――それ、忘れんといてください。」

校長の頬がかすかに震えた。委員長が議事を進めようとしたが、校長がゆっくり立ち上がった。

「……少し、発言をさせてください。」

沈黙。

校長の声は、最初よりも低く、そして震えていた。

「私は、教育者としての責務を果たすつもりで、この答申を作成しました。しかし、今思えば、“正しいことを伝える勇気” よりも “立場を守る安心” を選んでしまったのかもしれません。誤解だとか、表現の問題だとか、そう言い訳をしているうちに、私自身が “本当の自分” を見失っていました。」

その言葉に、会場は静まり返った。PTA会長夫妻は硬直したまま、視線を交わせない。

委員長が低く言った。

「本件は、教育委員会として再調査を行い、関係者の責任を確認します。なお、開発計画は一時中止とします。」

校長は深く頭を下げた。その青いシャツが、春の光の中で淡く色を失って見えた。

その背を見ながら、嵐山は小さく呟いた。

「色が落ちるんは、悪いことやない。ほんまの青になるための過程や」

外では、風に乗ってツバメが鳴いた。会議室の空気は、ようやくひとつの季節を越えたように、静かに澄んでいた。