鬼を狩る子孫 第四話 保護者会の罠(12)

虚構の答申

校長室のブラインドが半ば閉じられ、外の光は細い縞となって机に落ちていた。
校長は書類の束を手にして、黙ったままボールペンの先を見つめていた。
机の上には「鏡ヶ淵地区環境調査・教育的見地からの答申」と題された文書。
彼の署名欄には、すでに青いインクが滲んでいた。

「……これでいいのか」

低くつぶやいた声が、部屋の中に吸い込まれていく。

ノックの音。

「校長先生、教育委員会への提出、午後五時が締め切りです」

教頭の声だった。

「わかっている。すぐに出す」

そう答えながらも、手は動かない。

 “鏡ヶ淵に湧水は認められず、地盤は安定しており、開発に伴う教育的支障は想定されない――”

自ら書いたその一文が、まるで他人の手によるように感じられた。

創作小説の挿絵

机の端に、折りたたまれた古い封筒があった。差出人は― “ホワイトローズ” 。
ボストン時代、ある日本人女性から受け取った手紙だった。黄ばんだ紙の上に、薄く褪せたインクでこう書かれている。

> 「正しさよりも、誠実であることを。
>  人は光の中よりも、影の中で本当の自分に出会うものです。」

校長はそっと目を閉じた。ハーバードの図書館で語り合ったあの夜の風――
窓辺のカフェで、彼女が笑いながら言った「先生って呼ばれる人ほど、
本当は何かに迷ってるんですよ」という言葉が、遠く蘇る。

しかし現実は、あまりに重かった。

PTA会長の夫――不動産会社社長・榊原からの圧力。
市議会議員との繋がり、学校への寄付金、地域の評判。

すべてが彼を囲い込んでいた。

「私は……教師である前に、管理職なんだ」

その呟きは、もはや自分への言い訳でもあった。
書類に押印する音が、やけに大きく響いた。

その頃、嵐山は職員室で新聞を広げていた。
記事の片隅には、「鏡ヶ淵地区再開発計画、教育委員会に申請へ」の文字。
教頭がそそくさとコーヒーを淹れながら、にやりと笑った。

「うまく運びましたな、校長先生も」

嵐山は新聞をたたみ、静かに言った。

「うまく、やのうて “速く” や。速いことと正しいことは、ちゃうで」

教頭が肩をすくめ、去っていった。

嵐山は机の引き出しから、昨日悠夜たちが持ち帰った古地図の写しを取り出した。

「鏡ヶ井――」

その古い字が、妙に胸に残る。

放課後、悠夜と蓮、大地が部屋を訪ねてきた。

「先生、校長先生の答申、もう出しちゃいました」
「そうか。早いな」

嵐山は淡々と頷いた。
蓮が声を潜める。

「でも先生、僕らの調べたやつ……まだ出してませんよ。地層の写真とか」
「それでええ。慌てることあらへん」

嵐山は窓際に立ち、校庭を見下ろした。夕暮れの光がグラウンドを橙に染めている。

「人はな、真実よりも先に “都合” を信じたがる生きもんや。けど、都合は永うは持たんいずれ、土地が喋り出す」

悠夜が小さく呟く。

「……鏡ヶ淵が、語る」

嵐山は頷いた。

「そうや。沈黙いうんは、忘却やのうて “蓄え” や。待っとるんや、語る時を。」

その声は穏やかだったが、奥に硬い響きを含んでいた。それを聞いていた大地が、ふと嵐山の横顔を見つめた。

「先生、怒ってるんですか?」

嵐山は小さく笑った。

「怒るんは、まだ相手が信じられる証拠や。ほんまに見捨てるときは、黙る。――校長先生も、今はまだ信じとる。」

その夜、校長は自宅の机で再びホワイトローズの手紙を開いた。青いシャツの袖口が、わずかに色あせて見えた。

彼はそっと呟いた。

「……誠実で、あること。それが、どんなに難しいか……君は知っていたんだな。」

窓の外では、春の風が静かに街を渡っていた。