鬼を狩る子孫 第三話 新任校長の履歴書(1)
チャールズリバーの光
チャールズリバーの水面は、陽を受けて銀の鱗のようにきらめいていた。八人乗りのボートが川面を切り裂き、オールが揃って水を叩くたび、しぶきは光の粒となって舞い上がる。川風が頬を撫で、仲間たちの笑い声と掛け声が空に溶けていった。青年は胸いっぱいに空気を吸い込み、この瞬間が永遠に続くようにと願った。
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あの川に立つ自分こそ、かつて夢見た未来の姿だった。
日本の高校で、ひたすら勉学に打ち込み、英語に挑み、周囲から「無謀だ」と笑われても心は折れなかった。地方の小さな町から世界へ飛び立つ──その志だけが彼を突き動かしていた。そして、ついに届いた合格通知。名門ハーバード大学の合格は、彼の人生にとって最大の栄誉であった。
ハーバードはアメリカ東部の名門校群「アイビーリーグ」の中でも、特に古く、特に権威ある学府である。幾人もの大統領を輩出し、世界中の学問と政治と経済を動かす人材を送り出してきた。その門をくぐることは、ただ一大学に入るという以上の意味を持っていた。伝統と未来が交錯する、知の聖堂に足を踏み入れることだったのだ。
赤レンガ造りの校舎が並ぶケンブリッジの街は、どこか厳粛で、同時に若者の熱気に満ちていた。寮の部屋では深夜まで議論が続き、国籍も背景も異なる友人たちと語り合う夜があった。狭いベッドと小さな机しかない空間でも、そこに集う若者たちは、未来を変えるのは自分たちだという確信に燃えていた。図書館の扉を開けば、世界中から集められた書物が整然と並び、その背表紙の一つひとつが可能性を秘めていた。
夕暮れ、ボストン・コモンの緑が黄金色に染まり、街全体が祝福されているかのように輝いた。未来は確かにそこにあった。学問に励み、友情を育み、恋を知り、やがては世界に羽ばたく──そう信じて疑わなかった。
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だが幸福は長く続かなかった。実家の事業が突然傾き、仕送りは途絶えた。生活のためにアルバイトを増やせば増やすほど、講義に出られなくなる。落とした単位は取り返せず、教授の視線は冷たく、学友たちの輪からも遠ざかっていった。心の支えだった恋人もやがて彼のもとを去った。あのチャールズリバーのきらめきは幻だったのか。赤レンガの街並みに映る夕陽も、夢だったのか。未来は音を立てて崩れ去った。
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……それでも立ち止まることはできなかった。敗北を認めることは、自らの存在を否定するに等しかった。ならば、学位を得られなかった事実を隠し通し、得たかのように装うしかない。虚飾であっても、あの光の日々を取り戻すためには、それ以外に道はなかったのだ。
鎌倉の町へ向かう車中で、校長は窓外に流れる風景を見つめながら、唇を固く結んだ。
──私は間違ってなどいない。
──私はここまで来たのだ。


