俳句的生活(41)-渡来人ー

箱根駅伝の平塚中継所のある地名は、唐ケ原といいます。この地名からも、茶屋町と同じように、稀有な感じを受けていました。更級日記では、和名で「もろこしケ原」と呼ばれています。直ぐ西の大磯に高麗という地域がありますので、そこと関係する唐人(からびと)の住んでいた土地であることは、確定的であると思います。

高麗(こま)には、今は高来神社と明治政府によって漢字を変えられている高麗寺がありました。この高麗は高句麗を指しています。三韓のなかで最初に唐によって滅亡するのは百済で、白村江と続き、そのあとに高句麗は唐によって滅ぼされます。敵の敵は味方という論理で、当時の倭は、高句麗からの王族の亡命を受け入れたのでしょう。なぜならば、高句麗こそが、4-5世紀にかけて倭国が数度、大軍を派遣して戦った相手であるからです。当時の倭には、製鉄の技術がなく、朝鮮半島南端の伽耶から、製鉄された鉄の板を輸入していました。その伽耶が高句麗によって脅かされたために、派兵せざるを得なかったのです。結局、倭は高句麗には勝てず、そうこうしているうちに、製鉄の技術を獲得し、朝鮮に関わる理由もなくなったのですが、成り行き的に百済を支援して、白村江の大敗に至ったのです。

渡来人としてもっとも多いのは、百済からの人達です。彼らは畿内に居住し、飛鳥文化に大きな影響を与えます。高句麗からの人達が大磯に住み着いた理由、更に埼玉の方へ移住させられた理由は不明です。高麗寺には、高麗権現の本地仏として、千手観音が祀られていました。今では平安時代に作られたものであることは判っているのですが、伝えでは、大磯浦の海中より出現した、ということになっています。こうした言い伝えも、高句麗の人達が大磯に現れたことと関係しているのかも知れません。

明治になってから日本は韓国を併合しますが、当時の新聞をアーカイブで見てみますと、我々は神功皇后や太閤でも出来なかったことを実現したと、沸き立っています。愚かなことをしたものだと思わずにはいられません。

妻と来し巾着田の曼殊沙華

高来神社
高来神社
高来神社の掲示板
高来神社の案内板
134号線の唐が原の信号