俳句的生活(42)-湘南の海ー

過日、徳富蘆花の「自然と人生」に収められている「湘南雑筆」を拾い読みしてみました。蘆花は明治30年に、東京赤坂より逗子に転居していて、逗子からの、富士、伊豆、相模湾の眺めを1年に亘って綴ったのが、湘南雑筆です。(横須賀線は、横須賀に軍港があったせいで、東海道線が国府津まで延伸したわずか2年後の明治22年には全線開通しています。)湘南の光る海のイメージは、この湘南雑筆によって形成されたと言って良いでしょう。

ところが、この湘南雑筆には、茅ヶ崎という言葉が一語たりとも出てこないのです。蘆花の視点が全て逗子からのものとなっていて、正面が富士、相模湾であったことにも依りますが、茅ヶ崎が、鎌倉・逗子、藤沢・鵠沼に対して開発的意味で後発地であったことが大きいと思います。蘆花にとっては、茅ヶ崎は風光明媚な地というより、松原の中の名もなき寒村に過ぎなかったのだと思います。

開発が遅れたことにより、地価が他と比べて安く、別荘地開発として二つの特徴を茅ヶ崎にもたらします。一つは別荘主として、鎌倉・逗子・藤沢・鵠沼に政治家、実業家が多いのに対して、茅ヶ崎は官僚、文化人が多い点です。もう一つは、広大な面積の別荘地が茅ヶ崎に生まれたということです。例として、団十郎とラチエンの二つを挙げることが出来ます。団十郎は、”相模の海を泉水に、富士の山を築山に” といえるような別荘を作るために選んだのが茅ヶ崎であり、ラチエンは、別荘地の選定を葉山から始めて、辿り着いたのが茅ヶ崎でした。この二人については別稿で綴ることに致します。

幕末から明治にかけて日本を訪れる欧米人のルートは、上海から横浜に至る汽船に依る航路でした。日本に近づくにつれて真っ先に目に入るのが富士山で、次には相模湾に面する湘南の砂浜と緑の陸地でした。彼らは口を揃えて「地上で最も美しい国のひとつ」と絶賛しています。戦後、逗子を中心として、理念なき太陽族なるものが出現してきますが、彼らに湘南の美しさを破壊させてはいけないものと思っています。

大漁の帰帆や相豆の大夕焼

湘南の海