俳句的生活(38)-太陽太陰暦ー

現役時代、東海道線で1時間かけて、東京まで通勤していましたが、時折、天文的なことを、何も参考にせずに、自分の頭だけで、どの辺の処まで辿れるかということを、暇つぶしにやっていました。例えば、太陽や星までの距離はどうすれば求められるかというようなことです。高校の物理で習ったケプラーの法則などもすっかり忘れていましたので、ゼロから考えるのは大変なことでした。ただ、新たな知識として、変光星のことなどは知っていましたので、1500光年ぐらい先までのことは、なんとか考えることができました。

太陽太陰暦などは、割と理解しやすいジャンルです。その証拠に、原始の時代において、だいたいどの民族でも同じようなことが考えられました。地面に棒を立てて、影の長さを測定していけば、最長と最短の日が、決まった周期で訪れることは、容易に掴むことが出来ました。月の満ち欠けは一目瞭然です。太陽の動きの中に月の動きをレゴのように嵌め込んだのが太陽太陰歴なのです。

太陰暦だけでは、12か月で、地球が太陽の周りを廻る1年と合わないので、たとえ閏月で調整したとしても、農事には適切な暦にはなっていません。そこで農事の為には、太陽暦を使用し、夏至と冬至となる日を今年はこの日であると定めて、1年を24等分したのが24節気なのです。昔のお百姓さんだけでなく、現代で俳句作りをしている我々にも、季節感を届けてくれる暦として、無くてはならないものになっています。

ところが日本では、平安時代に遣唐使を中止し、以降同じ暦を800年間使用し続けたために、江戸時代の初めには、24節気と実際の地球の運行との間に、2日ほどのずれが生じることになりました。暦の上の夏至が実際の夏至と2日ほどずれていたのです。そのことに気付いた幕府天文方では、およそ20年かけて暦の改定作業を行いました。ずれの原因は、地軸が公転面に対して傾いていて、独楽のように自転していることと、地球の公転軌道が、他の惑星からの引力の影響を受けているためでした。改定の中心となったのは、渋川春海という人物、和算の大家である関孝和とも親交のある人で、囲碁の四つの家元のひとつ安井家の当主でもありました。

私は時折、太陽系の上から地球を眺めた時の、”闇”というものを想像します。地球の接線に沿って入って来た光は、地球から見ると、夕焼けを生じさせますが、空気層を通り抜けて、地球の闇の領域の縁を通過するとき、地球外から見たら、どんなグラデーションを生じさせるのだろうかと、想像するのです。

独楽のごと廻る地球や夏至きたる

天地明察