俳句的生活(37)-茅ヶ崎駅ー

茅ヶ崎に引っ越してきた当座、知り合いからは必ずといってよいほど、家のある場所についての質問を受けました。山側ですか海側ですか(山などないのに)、平塚寄りですか藤沢寄りですか、という質問です。駅を原点として、平面を4象限に分割してのものでした。茅ヶ崎といえば海のある南側、それも別荘地の多かった東側がほんまもんの茅ヶ崎、というイメージを質問者は持っていて、第2象限です、と答えたときには、ダサイところにお住まいですな、と思われたであろうと、辟易としたものです。

ところが、意外と思われるかも知れませんが、茅ヶ崎駅に南口が出来るのは、駅が開業してから25年も経ってからのことなのです。駅は明治31年に、なにもない原っぱの中に作られました。北と南、どちらが表玄関になるかというと、それは東海道がある北側でした。別荘や南湖院へ行く人たちは、北口で人力車に乗り、大踏切を渡って南側に出ていったのです。

東海道線は、明治5年の新橋(今の汐留)-横浜(今の桜木町)を皮きりに、明治20年に国府津までが開通しましたが、茅ヶ崎には駅は出来ませんでした。それは開通当初は、藤沢・平塚・大磯と、旧宿場ごとに駅を設置する方針が採られたからです。

当然のことですが、茅ヶ崎からは駅開設の運動が起こります。明治28年に、茅ヶ崎村と鶴嶺村から共同請願がなされ、その時の願書では、駅を多くすることは人流と物流を増やし、農工商の隆盛に寄与することと、藤沢・平塚間は他に類のないほどの遠距離である、という理由が述べられています。駅の設置場所を巡っては、部落間での争奪戦が行われたらしく、南湖の方は金剛院附近を、本村の方では雲雀岡附近を主張した、と記録されています。

開業当日は、茶屋町の商人が中心となって、神楽・相撲・手踊り・花火などを催し、駅周辺は「衆人雑踏」という混雑状況になったそうです。

駅北口南にあらず越前祭

昔の茅ヶ崎駅
茅ヶ崎市史ブックレット10の表紙