俳句的生活(335)-丸亀の蕪村寺ー

この5月の連休、3泊4日で四国旅行をしてきました。高知での1泊を挟んで香川県の高瀬と善通寺で1泊ずつという行程でした。高瀬で泊まった処は「千歳旅館」という昭和の初めからのお遍路宿で、二組のお遍路さんとの同宿となりました。また、善通寺は「いろは会館」という宿坊で、20数組が宿泊していました。

時間的に一番長く過ごしたのは丸亀で、お城の内堀の周囲を廻ったり、京極藩の二代目の藩主が築いた中津万象園を巡ったりしましたが、本ブログでは蕪村が明和三年(1766年) から六年(1769年) までを過ごした妙法寺(通称蕪村寺)について記したいと思います。

四国は今でこそ3本の橋で本州と繋がっていますが、それ以前は高松と岡山県の宇野を結ぶ宇高連絡船が基幹のルートでした。この連絡船は78年間続いていますが、それ以前の江戸時代においては、金毘羅船が上方と丸亀をつないでいたもので、今、丸亀港にはその縮尺模型が置かれています。

金毘羅船

また、太助灯篭とよばれている海を照らした立派な常夜灯が屹立しています。

太助灯篭

蕪村寺はお城にほど近く丸亀市内に、車一台が通れる一方通行の路地の奥にひっそりと佇んでいます。

蕪村寺の山門
蕪村寺の山門

蕪村寺は天台宗のお寺で、讃岐に赴いた蕪村が琴平の俳諧仲間の紹介を受けて、宿泊場としたところです。一宿一飯の恩義ではありませんが、3年間の宿泊料を蕪村は絵を描くことで支払っています。蕪村の絵の値段は、大きな屏風図で3両(現在価格で30万円)であったとされて、1両=1石で人ひとりが一年間食べていけた時代ですから、謝礼としては充分過ぎるものであったと言えるでしょう。それらの絵は現在、国が指定した重要文化財となっていて、六点の作品が遺されています。。

蕪村寺の案内板

蕪村寺を訪れたのは5月5日でしたが参拝者は他に誰もいなく、その為であったのか、住職さんが丁寧に堂内を案内して下さいました。

説明してくださった住職さん
案内して下さった住職さん(御年88歳)

襖の絵は寒山拾得図です。住職さんがまだ若いころ、天台宗では僧侶を寒山寺に派遣していて、住職さんはそのメンバーの一人となっていて、その時の写真も額に掛けられていました。

寒山寺へ行ったときの住職さん

蘇鉄図は客殿での襖絵となっていました。左右に張り出した勇壮な構図の蘇鉄図です。

客殿入口

客殿

蘇鉄図

この蘇鉄は今もお寺の庭に植わっていて、住職さんのお話では蕪村の時代の蘇鉄の孫ぐらいのものであろうとのことでした。蘇鉄の寿命の長いのに驚きました。下の写真は堂内からガラス戸越しに撮ったものです。

庭の蘇鉄
庭の蘇鉄

蘇鉄図の他の絵には次のようなものがあります。

拾得図
寒山拾得図の右の部分
寿老人図
寿老人図
竹図
竹図

これらの重要文化財が、手でも触れることができる処に置かれているのは、安全面から心配でしたが、蕪村の息吹が感じられ、素晴らしいことだと思いました。

本堂には駕籠が置かれていて、慶応元年(1865年) の家康公250年忌に、当時の住職を乗せて日光まで参内したときの物とのことでした。住職さんの説明では、往復の道を東海道と中山道に違えたところ、ともに66日を所要して同じであったとのことでした。2015年には400年忌が行われています。

駕籠
250年忌のときの駕籠
駕籠の説明

四国での俳句というと、つとに松山に一極集中していますが、丸亀はこのように蕪村にゆかりのある土地です。丸亀にも俳句愛好の団体があると思うので、蕪村寺を核とし、俳句イベントを企画して、丸亀を俳句で全国区の街にできないものかと思います。

蕪村が丸亀を去るにあたって作った句は次のものです。

長尻の春を立たせて棕櫚の花  蕪村

この句にはお世話になった妙法寺への感謝の気持ちが汲みとれます。また、このお寺には蘇鉄の他に棕櫚が植わっていたことが判ります。

丸亀は私が通った高校がある都市です。最近の連句ではこんな長句を作ってみました。冬の月を詠む箇所の句です。

蛍雪の夢を照らせり月天心  游々子