俳句的生活(36)-近世の茅ヶ崎ー

浄見寺の門よりやや越前通り寄りに、茅ヶ崎市指定の重要文化財である旧和田家住宅が、萩園より移築、保存されています。迂闊なことですが、この住宅が私の自宅のすぐ近くのものであったことに、最近まで気付かずにいました。その場所とは、萩園中学の南側、生協と萩園通りをはさんでの、立派な門構えがあるお屋敷です。私達が茅ヶ崎に越して来た3年後の昭和57年に解体が始まり、60年に移築されたものでした。

近世、江戸時代、茅ヶ崎は23の村から成っていて、5村は幕領で18村が旗本領でした。天保年間のものですが、23の村の総石高は7,548石で、総戸数は1,657戸となっています。旗本の数は40で、一つの村に一つの旗本が領主として居る場合もあれば、複数の領主となっていた場合もあります。石高は幕領で1,626石、旗本領で5,922石でした。また、年貢率はおおむね四公六民といったものでした。このことより以下のことが推論されます。

一戸あたりの石高は4.6石/戸、民に残るのは3石足らずで、コメだけではとても生活が成り立ちません。他に何かの収入源があったものと推察します。一方、旗本の方ですが、148石/旗本となり、年貢としては60石でしかありません。茅ヶ崎以外にも知行地を持つ場合が多いので、実際はもっと増えますが、それにしても平均としては貧しいものでした。

江戸が江戸城を中心として町を形成するようになると、旗本たちは江戸に呼び寄せられて、知行地から離れることになります。そして、和田家のような豪農が、苗字帯刀を許された村役人となって、年貢徴収を中心とした村の実務を担っていくことになりました。名主のような村役人は、村を代表する立場と、領主の末端の管理者という二面性を持つことになります。

領主と村役人は共通の利害で、強い絆で結ばれて行きます。柳島村の例ですが、幕末の領主は、戸田肥後守勝強(かつきよ)という、鳥羽伏見の戦で幕府の陸軍奉行並を務めた旗本です。安政の大地震が起きたとき、柳島の名主であった藤間柳庵は、江戸に屋敷奉公に出していた孫娘の安否が気になり、麻布の奉公先を尋ね、その足で神田駿河台の戸田邸に参上し、当主肥後守や家族の安否を確認しています。そこには、他の知行地からの名主たちも集まっていて、数日泊りがけで善後策を相談して、金100両の拠出を決議しています。また幕府瓦解で幕臣としての家禄を失う戸田家に、向こう5年間にわたりコメを送ることを、知行所の村々で取り決めています。柳島の藤間家では更に、明治初年に肥後守の息女を引き取って世話をしたとなっています。添付の写真は、佐久間象山が撮影したという戸田肥後守の肖像写真で、戸田家から藤間家に贈られたものです。

老鶯の谺や萱の大廂

旧和田家住宅
旧和田家住宅
柳島の旗本―戸田肥後守ー
戸田肥後守、「茅ヶ崎市史ブックレット15」より