俳句的生活(329)-茅ヶ崎の俳人(3) 鈴木松風郎ー

茅ヶ崎萩園の番場という地区に、鈴木という幕末から昭和にかけて多くの俳人を輩出した旧家があります。番場の北に位置する島入という処には鈴木一族の本家・分家の墓地が連なっています。本家の墓地と思われる箇所には、新たに墓誌が作られていて、その最初の人として鈴木松風郎という俳人の名前が記されています。

鈴木家の墓誌
鈴木家の墓誌

この人については萩園八景を定めた人として、一度ブログで取り上げています(こちらより)が、今回、より詳しく紹介してみたいと思います。

五月雨の音なく降るや草の上  幽喬(鈴木良助)
夜祭や社に参る人の声     若水(鈴木利左エ門)
田に配る水ぬくぬくと春の風  孤山(鈴木定吉)
呼に来た子も遣羽子に日の昇る 如水(?)

こうした人々は前稿で紹介した和田一敬とほぼ同時代の人で、”番場” は一敬の “辻” と同じ幕府領であったことから、密な交流が為されていたものと推測できます。

松風郎(1887~1970)は彼らより一世代後の明治20年に、鈴木の本家で生まれた人です。本名は「猪」で、父親は一角こと鈴木安五郎。彼は孤山・若水・幽喬らを生んだ鈴木派連衆の嫡流ともいうべき立場に生まれています。

彼の俳歴は若くして始まり、15歳時には次の句を詠んでいます。

うたた寝の遠き蛙を聞く夜かな

彼が俳句活動を始めた明治30年代は、正岡子規による俳句革新の風潮が高まっていた時で、各種俳句雑誌が刊行されていました。その中に藤沢の永瀬覇天郎という人が、巌谷小波・内藤鳴雪らを選者に迎えて興した「いたどり」という雑誌があり、松風郎はそこに多くの句を載せています。次の5句は彼の22歳の時のものです。

冬木立つ中の乙女や木葉掻く
冬田原ここら御料の鴨場かな
法談の帰るや寒し木兎の声
打落とす蛍は水に流れけり
つれつれを蠅打ち叩く留守居かな

松風郎は俳句にとどまらず、文芸全般や地誌にも関心があったようで、次のような俳文を残しています。

大磯まで  明治四十二年作

七月二十一日、大磯なる知人より所要の手紙到る。昼餉を早めにして出かける。

久々に友を訪ふ日の涼しけれ

馬入橋に到れば中洲の広場、砂利採集の人にてうずもる。

三々五々砂利トロを押す暑き中

日英同盟による火薬工場アームストロング会社の煙突けぶる附近、八幡甘藷の産地とて見渡す限り甘藷畑がつづく。

甘藷すでに裏葉見せたる暑かな

平塚本宿稲元屋書店に立ち寄り熊沢蕃山の著作集義和書類抄を求め、拾い読みしつつ花水橋を渡る。川の上岸草掻く人笠をならべて美しく、高麗山を仰げば寂として太古もかくやあらんと思われる。

物一つ動く風なし雲の峯
雲の峯田中の水のにえ返る

避暑客ちらほら見ゆる大磯につき、知人の家に汗を拭きつつ入る。

何よりの馳走と思ふ団扇かな

果然、雷雨一過す。中庭をへだててみゆる高麗山、絵も及ばぬ趣である。

夕立の洗ひ出したる御山かな

雷鳴も止みたれば要件をすまし、この家を辞して門外に出づれば、高麗神社の森に月かがやく。

雷止むで鎮守の松に月澄めり

雨後の涼しき月を頂き、そぞろ歩きの愉しく帰路をたどる。

ここに記されている地名は私の家からは近く、120年前の長閑な景色が懐かしく思われます。アームストロング社の工場というのは後に海軍工廠となったところで、昭和20年7月の平塚空襲で、米軍機の標的とされてしまいました。