俳句的生活(101)-萩園八景ー

八景というものは、どこにでも自由に作れるものであるということは、茅ヶ崎八景の稿で述べましたが、それが実に、我家の近くにもあったことに驚きました。萩園八景というものです。

この八景、どうやら昔からあったらしいのですが、昭和30年過ぎに、萩園の郷土史家で俳人であった鈴木松風郎さん(明治20年―昭和45年)という方が、八景の場所と、彼自身の句を添えて、次のように纏めています。この鈴木さんのお宅は今もあり、私が自転車で畑に行くときは、いつもその前を通っています。

馬場山の晴嵐
住宅へ田を吹きぬいて青嵐

深田の落雁
雁がねや季節の風が声阻め

萩原の秋月
萩原の月あり雲の連なれる

相模川の帰帆
相模川帰り帆舟に松長閑

満福寺の晩鐘
晩鐘の澄める浄寂枯れ芭蕉

西の谷の夕照
夕映や雲雀は声を修めざる

三島宮の暮雪
暮れなずむ三島の森の雪明り

埋田の夜雨
投網背に戻る埋田や夜の秋

これらの八景の場所ですが、小字となっているところは、大体わかるのですが、晴嵐の馬場山というのは、現在の地名になっていないので、調べてみました。萩園は二つの旗本の知行地と幕領よりなっていたのですが、馬場山というところは、遠山氏という旗本の馬場があったところです。現在の番場がその場所であったと考えられています。遠山氏の屋敷は、満福寺の西側、西ヶ谷にあって、その堀には、小出川に堰を作って取得した水が、馬場を経由して誘導されていました。これらの周辺を自転車で巡ってみたのですが、残念ながらかっての痕跡を見つけ出すことは出来ませんでした。

昭和30年ごろの萩園は、それほど明治のころと、景観は変わっていなかったのではないかと思われます。現在の萩園は、宅地開発が進み、八景的な場所は皆無といってよいほどになってしまいました。

明治維新から昭和20年までは77年です。来年は昭和20年からの77年目となります。3番目の77年、我々は何を目指すべきでしょうか。

一笛の清き山里天高し

満福寺
満福寺