添削(69)ーあすなろ会(25)令和7年4月-
怜さん
原句 逃水の如く生きたや我が余生
逃水(にげみず)は春の季語で、春の陽炎のように、手に届きそうで届かない蜃気楼のような水影を表したものです。句意は、逃水のように、つかまえようとせず、自然に、ふっと自由に、そんなふうに余生を送りたい、というもので、静かな憧れがにじみ出ています。問題は中句の「生きたや」で、「や」では余生への願望よりも、今までの人生への詠嘆・感動と解釈されてしまいます。
参考例 逃水の如く生きたき我が余生
原句 春昼や弥勒の指も物憂げに
本句は、弥勒菩薩の指に何かしらの「物憂げな」感情が宿るという発想にオリジナリティがある佳句です。問題点は中句の「も」で、「も」を使うと焦点が定まらず、ぼけた表現になるのです。助詞の「も」は「に」と同様に、使用は要注意です。
参考例 春昼や弥勒の指の物憂げに
原句 絵手紙の退院知らせ風光る
季語「風光る」に合致した内容になっていて、その点は善いのですが、中句の「知らせ」が名詞なのか動詞の連用形なのかがはっきりしない文法的にどうかという表現になっています。参考例のようにするとすっきりするでしょう。
参考例 退院を知らす絵手紙風光る
遥香さん
原句 逃水や極み果てなし俳句道
俳句道を逃げ水に例えた句ですが、中句が抽象的になっています。参考例は「道なき道」として、三つの「道」で韻を踏んでみました。
参考例 逃水や道なき道の俳句道
原句 茶屋汁粉の湯気の上(のぼ)れる春の昼
原句では “春の昼” を上句中句で修飾していることになっているので、春昼を上句に置いて詠嘆した方が良いでしょう。
参考例 春昼や湯気の上(のぼ)れる茶屋汁粉
原句 野の風の吾の背押す遍路道
気持ちの良い春の遍路を詠んだ句になっています。中句の「吾の」は不要で、気持ち良い「野の風」に添える言葉に替えた方が良いでしょう。
参考例 野の風のそよと背押す遍路道
蒼草さん
原句 逃水の果ては阿修羅の救ひの手
本句は、”阿修羅” と “救ひの手” という、強い宗教的イメージを持つ語の選び方が印象的で、幻想的な世界観を形作っています。また、阿修羅は戦いや怒りを象徴する存在ですが、ここでは “救いの手” と逆の性質を持たせていて、それが本句ではユニークさを生んでいます。いくつか改善点があります。
参考例1 逃水の果てや阿修羅の救ひの手
“逃水の果て” を「や」で切ることによって、逃水の果ての何かを思わせる効果が生じます。
参考例2 逃水の果てや阿修羅の翳り(かげり)の手
“救ひの手” を「翳りの手」にすることで、あえて救済かどうかわからない不安定なイメージを強調してみました。翳りは阿修羅の顔の表情を連想させる言葉です。
原句 願わくは花に埋もるる余生かな
本句は、西行の名歌「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」を踏まえたもので、重厚なテーマに挑戦した句となっています。そして下句を “余生かな” とすることで、死を願望した西行の歌から離れての独自性を出す工夫をしています。その時に引っかかるのは中句の “埋もるる” で、これだとまだ死のイメージを引きずっています。独自性を徹底するには、死から「生」の美に、主軸を移してみることです。
参考例 願わくは花の光を余生にも
「埋もるる」=死の比喩から、「光」=生きる喜びへと方向転換してみました。
原句 仏滿つ大和大路や風薫る
本句からは季語こそ違へ、芭蕉の「奈良には古き仏達」の句を連想します。ただ、”大和大路” が6音使っている割には具体的なイメージが乏しく、損をしています。ここは芭蕉が奈良の2音で済ませているように、飛鳥、明日香、斑鳩、あるいは唐招提寺を象徴する「天平」のような、せいぜい4音の語句に縮めるのが良いでしょう。芭蕉の「若葉して御眼の雫ぬぐはばや」を本歌取りして参考例としました。
参考例 天平の雫ぬぐはば風薫る
游々子
逃水の上をスイスイ一輪車
春昼や光悦寺を一歩ずつ
開拓の石碑黙して鳥雲に