俳句的生活(313)-鴫立庵(5)五世庵主 加舎白雄ー
信州千曲市に長楽寺という天台宗の古刹があります。千曲市とは更科と呼ばれていた処で、芭蕉の更科紀行の舞台となった北信の地域です。長楽寺には、「芭蕉面影塚」という更科紀行で詠まれた姨捨の句の巨大な石碑が置かれています。
おもかげや姥一人なく月の友 芭蕉
この碑を建てた人物こそ加舎白雄(かやしらお)という、後に鴫立庵五世庵主となり、庵主中最も技量が高いと評された俳人でした。
加舎白雄が生きた時代は 丁度蕪村と重なっていて、文学史上 “天明中興の五傑” の一人に数えられています。伊藤松宇が著した「中興俳諧五傑」では、蕪村の雄放 に対して、白雄の老蒼 となっています。
白雄は信州上田藩士の家に生まれるのですが、次男であったために家督を継ぐことが出来ず、20歳代で俳諧の道に入り、鴫立庵三世の白井鳥酔の門弟となり、師の供をして諸国をめぐっています。一行は茅ケ崎を訪れたこともあり、白雄が詠んだ句は、
姥島の捨所よしけふの月 (明和二年(1765年) 白雄27歳)
というものです。姥島とは烏帽子岩のことで、句意は姥島の在り場所が今日の月にたいして丁度良い処に浮かんでいる、というものですが、姥島の姥と捨所の捨を合わせて姥捨、それに月を重ねて、芭蕉の姥捨山の句に連ねているのです。姥島(烏帽子岩)は茅ケ崎のシンボルになっていて、このブログ(HP)の表紙にもしています。
師の鳥酔がそうであったように、白雄も芭蕉を敬愛する五色墨派に属していました。長楽寺に芭蕉面影塚を建てたのもそれに依るもので、長楽寺には彼自身の句碑も建てられています。
白雄が鴫立庵に庵主として入るのは晩年の48歳のときで、庵主であった期間はわずか5年間です。彼は相模だけでなく信州を初めとして全国に多くの門人を持ち、その数は4000人と言われ、世に知られた俳匠だけでも200人余りが傘下にいたとされています。白雄の俳系は、もともと鴫立庵との関係があった小田原のみならず、相模国内全域に及んでいました。
彼が門弟と相模の用田(現藤沢市)で巻いた歌仙には次のようなものが残っています。
発句 吹いれし木の葉に琵琶のそら音哉 白雄
脇 茶粥をすする埋火のもと 楚雀
白雄は平安末期から室町時代にかけて、貴族階級の間で隆盛した伝統的連歌に造詣が深く、彼が著した「俳諧去嫌(さりきらい)大概」では、江戸時代に庶民の間で大流行した俳諧連歌(現在の連句)においても、伝統的な連歌同様に、詠み込まれるあらゆる事象に対して、何句続けよ、とか、一度切ると何句離せよ、とかの規制を提示しています。彼の立場は復古主義であったと言えます。現在私はメールを使っての連句を楽しんでいますが、ある程度の規則(式目)は導入しても、白雄の説く規制については、流石にフォローする気持ちにはなれません。
鴫立庵に置かれている白雄の句碑には、次の句が刻まれています。
吹きつくし後は草根に秋の風 白雄
彼が活躍した時代は、田沼意次が老中首座として幕政を担った時期で、江戸期において町人文化が最も華やいだ時でした。俳界において五色墨派は主流とはなりませんでしたが、鴫立庵での彼の俳系は幕末まで続き、鴫立庵は明治になってもしぶとく生き残り、現在に至っているのです。
病床の朋との連句秋の雲 游々子