俳句的生活(309)-鴫立庵(3)初代庵主 大淀三千風ー

鴫立庵の始まりは、前稿で紹介した小田原の外郎家の崇雪が、寛文初めの頃(1660年頃)に、草庵を結んだことによると言われています。これは、一世庵主である大淀三千風が著した「鴫たつ庵縁起」を典拠として伝えられているものです。

三千風が鴫立庵に入庵したのは元禄八年(1695年)で、崇雪が草庵を開いてから30年余りが経過していました。崇雪の造った草庵は既に廃屋になっていて、現在に残っている庵主の住まい(東住舎)や俳諧道場(秋暮亭)は全て三千風が創建したとされています。

三千風が生きた時期がいつかということですが、芭蕉と比較してみるとはっきりしてきます。三千風の生まれは芭蕉よりも5年早く、死亡は芭蕉よりも13年遅くなっています。即ち三千風の生涯は芭蕉のそれをすっぽりと覆っていることになります。

三千風の出身は三重の松阪で、あの豪商の三井家の分家です。一度は家業を継ぐものの、俳諧への情熱を断ちがたく、31歳で家をでて松島に赴き仙台に15年間居住しています。仙台では一昼夜で3000句を詠み、これ以降、三千風と名乗っています。

1683年、三千風は7年間に及ぶ全国行脚に出ています。北は岩手・秋田、西は九州・四国まで歩いています。四国へは大阪から金毘羅船で丸亀に入り、120日をかけて88か所巡りをしています。旅に出た時は法体をして、呑空と名乗っていました。

大淀三千風の肖像画

けふぞはや見ぬ世の旅の更衣    大淀三千風

この句は旅立ちに当たっての三千風の作ったものですが、作風は談林派のものと言ってよいでしょう。

三千風の庵主としての在庵期間は元禄八年(1695年)から宝永四年(1707年)の12年間です。現在残っている円位堂はこの時期に三千風によって創建されたものです。西行・鴫立沢・俳諧道場という現在も続く鴫立沢のイメージは、一世庵主三千風が作ったものと言ってよいでしょう。

三千風が特異なのは、俳人であるのみならず、謡曲の作者でもあったことです。彼が遺したのはその名も「鴫立沢」というもので、曽我十郎・五郎兄弟の敵討ちのヒロインである虎午前を扱っているものです。彼の書いた文は紀行文なども七五調になっていて、七五調の謡曲を作ることは慣れたことだったのでしょう。

謡曲鴫立沢
元禄十年(1697年)大淀三千風が著した謡曲

虎午前は大磯の遊女で、十郎の愛人でした。兄弟が敵討ちを果たした後は、出家して二人を供養したと言われています。

謡曲「鴫立沢」のあらすじは、陸奥へ修行に出た旅僧が、大雪で都に帰る途中、大磯でも大雪に合う。そこに虎御前の霊が僧の前に現れ、本懐を遂げた曾我兄弟を弔い、死を嘆き、ありし日の姿で雪の中で舞うというもので、高麗山の鐘が鳴り東雲の夜明けと共に亡霊が消えてエンディング、という内容です。旅の僧は西行をイメージして創作したものでしょう。

三千風は鴫立庵の中に虎午前を祀る “法虎堂” というお堂を造り、江戸吉原から寄進された虎午前の像を祀っています。この像は虎午前19歳の姿を写した木像です。法虎堂はかっては “虎心堂” と呼ばれていました。

虎午前の像
法虎堂に祀られている虎午前像

俳句では「虎が雨」が夏の季語になっています。十郎の死を悲しんで虎午前が流す涙が雨となって降る、というものです。

三千風の句は

鴫たってなきものを何よぶことり

というものです。

「たって」は、「立つ」の連用形、「なきもの」は、鳴かないもの、鳴いていないものを指します。「何よぶことり」は、「何を呼ぶ鳥か?」という意味で、ここでは「鳴くのは何の鳥か?」という問いかけになっています。つまりこの句は、普段は賑やかであるはずの鴫が鳴いていないという状況を切り取り、それを異様とし、静寂の中で感じる不安感や異常さを表現したものです。上句で “鴫たって” としたのは当然、鴫立沢の鴫にするためです。

この句は墓碑に刻まれています。

三千風の墓石


三千風が生きた時代、三井家は江戸に進出し大成功をおさめています。その経営は今でいうところのホールディングカンパニーで、複数の人間で三井家全体を統治し、各家には利益の中から賄い料と呼ばれる生活費を支給していました。今の会社でいえば役員報酬のようなもので、たとえ創業家であっても会社の利益を個人のものにしない、という経営でした。これによって三井家は長く存在し、明治になっては財閥へとなっていったのでした。

三千風にも、家を出たとはいえ三井家から賄い料が支給されたはずで、鴫立庵の中の施設の建設費は彼自身の負担によったものと考えられます。彼が書いたものからは、金に困ったというのは見当たりません。そこが芭蕉や蕪村との大きな違いであったと思っています。