俳句的生活(306)-鴫立庵(1)西行と芭蕉ー

江戸時代、西行と芭蕉は江戸の人達のあいだで ”有名人” になっていて、川柳に何句も詠まれています。

西行も野郎の時は北を向き

西行の俗名は佐藤義清といって、鳥羽上皇の北面の武士であったことを詠んでいます。

もし鴫が居ぬと二夕(せき)になるところ

西行が詠んだ和歌は、

心なき身にもあはれは知られけり
鴫立沢の秋の
暮れ  西行

というもので、この他に次の二首があり、西行のと合わせて三夕の歌と称されていました。

見渡せば花ももみじもなかりけり
浦の苫屋の秋の
暮れ  藤原定家

さびしさは其の色としもなかりけり
まき立つ山の秋の
暮れ 寂蓮法師

川柳は鴫立沢に鴫が居なければこの歌は出来ておらず、三夕は二夕にとどまったであろうというものです。

鴫は立ち烏はとまる秋の暮

この川柳は難しい。江戸の人でどれだけが判ったものかと思ってしまいます。それというのも、上五は西行であることは直ぐに判るのですが、中句下句が何なのか、ということです。これは枯れ枝に烏のとまりけり秋の夕暮れの芭蕉の句なのです。この川柳が作られたのは芭蕉の没後129年経ってのもので、芭蕉も西行と同じく、江戸庶民にとって、有名人となっていたことが判ります。

この芭蕉の句から私が想起するのは、漱石の『吾輩は猫である』で水島寒月くんが滔々と述べる俳句的演劇論の中の一節です。

俳人虚子が花道を行き切っていよいよ本舞台に懸った時、ふと句案の眼をあげて前面を見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びている、はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虚子先生大(おおい)に俳味に感動したという思い入れが五十秒ばかりあって、行水の女に惚れる烏かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木を入れて幕を引く。

というものです。虚子の句は明治38年に作られたもので、漱石の猫も同じ年ですから、漱石はこの句を知った上で執筆していて、虚子の句にはない枝に止まっている烏としたのは、芭蕉の句を知っていたからに他ありません。後年虚子は客観写生を標榜しますが、若い時分(行水の句は虚子31歳)にはこのような愉快な句も作っていたのです。

鴫立庵には円筒形をした芭蕉句碑と呼ばれている珍しい石碑が立っています。

芭蕉句碑

碑の上部には、芭蕉の四句が刻まれています。

みのむしの音を聞に来よ草の庵
日のミち(道)や葵かたふく皐月雨
はこねこす人もあるらしけさの雪
春たっ(ち)てまた九日の野山哉

そして下部には26名の作品が刻印されています。その内で次の六句が判読できます。

登る日に蝉の啼たつ野杉かな    鳥光
おく霜に片われ月の野末哉     烏明
ありありと冨士見ゆる日の寒哉   藤可
こよいこそ月の朧に梅朧      青羅
芭蕉忌や在さん日な(以下判読不能)百明
八九間苔を見わくる清水かな    左明

何故この芭蕉句碑が鴫立庵に立っているかということですが、碑の裏に書かれている建立年度の安永九年(1780年)と句碑の中の左明という人物より推測できます。左明という俳人は鴫立庵三世庵主の白井鳥酔と同門で、鳥酔は句碑が作られる前年まで庵主の座にあった人です。そして鳥酔も左明も五色墨派という蕉風を復活させようとする一門に居たことにより、庵主であった鳥酔が崇敬する芭蕉の石碑を作らせたのでしょう。石を彫ったのは大磯の石工孫三郎となっています。

芭蕉は何度も東海道を往来していて、現在鴫立庵がある辺りを通っているはずですが、芭蕉の句で鴫立庵が詠まれたものはありません。それは初代庵主が入庵して鴫立庵を再興したのが芭蕉没後という時間関係によるものです。

西行は二度ほど陸奥へ旅をしていて、鴫立沢の歌を詠んだのは一回目のときで、彼がまだ29歳の時です。西行が詠んだのは鴫が立っている沢というもので、これが地名として固有名詞となったのは、ずっと後になってのことです。西行はこの歌を格別に気に入っていて、歌友達の藤原俊成が勅撰和歌集(千載集)を編むときに入集を望んだのですが、俊成は西行の別の歌を選んでいます。一方で俊成の息子の定家は西行を高く評価し、彼が編んだ新古今和歌集にはこの歌を選ぶとともに、西行の歌を一番多く載せています。

現在鴫立庵の入口の前には大磯の丘陵からの湧き水が一国の下を横切って、こゆるぎの浜へと流れ込んでいます。

鴫立沢の沢
鴫立沢の沢

鴫立庵にて
蒼天が好き大鷹の舞ふ大樹  游々子