俳句的生活(292)-芭蕉の詠んだ京・近江(16)最後の旅立ち(1)-

元禄四年九月末、半年ほど関西に滞在した芭蕉はいよいよ江戸へ戻ることとなりました。この京・近江での芭蕉は、主として落柿舎、無名庵、幻住庵に滞在し、密に門弟たちと交わり、芭蕉の人生で最も輝いた時期でした。

二年半ぶりに戻った江戸でしたが、芭蕉にとって江戸はもはや心地よい場所ではなくなっていました。それというのも、奥の細道を経て芸道を高めた芭蕉に対して、其角や嵐雪といった江戸での古くからの門弟がついていけず、離反する事態が生じてきたのです。江戸での滞在はわずか二年半で終わり、芭蕉の心は再び上方へ傾くこととなりました。

元禄七年五月十一日、芭蕉は故郷の伊賀上野に向けて出立しました。芭蕉が亡くなるのはこの年の十月ですから、これが最後の旅立ちで、残されていた時間は5か月となっていました。

駿河路や花橘も茶のにほひ  (元禄七年五月十七日 芭蕉51歳)

東海道を下る途中、大井川の増水で芭蕉は3日ほど島田で足止めを喰います。

大井川

句意は、ここは何といっても茶どころ、この花橘ですら新茶の香がすることだ、というもので、芭蕉の浮き浮きした気分が詠まれています。大変に軽快な気持ちの良い句で、この時期に芭蕉が唱えた ”軽み” というものは「滑稽さ」ではなく、こうした淡々としていて味わい深い句をさしているものと私自身は思っています。

少し脱線しますが、芭蕉のこの ”軽み” というものを、芸術的に最も高い形で継承したのは虚子ではないかと思っています。例えば 遠山に日の当たりたる枯野かな とか 桐一葉日当たりながら落ちにけり というような句です。私は若い時は虚子に物足りなさを感じて、秋桜子の 滝落ちて群青世界とどろけり や 冬菊の纏ふは己が光のみ のような句が好きでしたが、嗜好が変わったのか今ではこのような華美な句よりも、虚子の淡々とした句に深みを感じるようになって来ました。

5月28日に故郷の上野に到着。ここには22日間逗留し、閏5月22日、京都の落柿舎に入り、6月15日までの滞在中、去来ら門弟たちと連歌形式の句会を何度も催しています。

柳小折(やなぎごり)片荷は涼し初真瓜(はつまくわ)  (元禄七年閏五月二十二日)

柳小折は行李(こうり)のことで、句意は柳小折と真桑瓜(まくわうり)を振り分け荷物にして肩にかけているが、その真桑瓜が取り立ての初もので涼し気であるよ、というものです。この句は芭蕉の即吟によるもので、大阪から参加してきた門弟に謝意を表した挨拶句となっています。真桑瓜は芭蕉の好物で、門弟は芭蕉への土産にと持参したものでした。

真桑瓜

この日の連歌は乱吟となっていて、参加者の句順を決めずに、出来たものが発表していくという形式です。五七五と七七を繋げていって、全部で36句となるものを「歌仙を巻く」と謂われていますが、この日の歌仙で芭蕉は六句を詠んでいます。この句はその歌仙の発句です。

3年ぶりに落柿舎を訪れた芭蕉にとって、初夏の嵐山の風光はなつかしかったに違いありません。

葉の裏に陽の当たりたる楓かな  游々子

ハウチワカエデ