俳句的生活(278)-芭蕉の詠んだ京・近江(1)山路来てー
松尾芭蕉の人生を大まかに振り返ってみますと、生まれ故郷である伊賀上野に居たのは29歳まで、その後江戸に庵を構え、時々は西国や郷里への旅をし、奥の細道に出かけたのは46歳、大阪で客死したのは51歳で、この5年間は京・近江、伊賀上野、江戸と、3か所を行き来していました。芭蕉俳句の真髄である ”不易流行” や ”軽み” といったものは、奥の細道の後に辿り着いた境地で、この5年こそが、最も円熟した時期であるといえます。
芭蕉はまた殊の外、京・近江を愛し、我々に馴染み深い句を多く残しています。本稿では京・近江を詠んだ句を一句づつ取り上げて、句が詠まれた場所や成り立ちを、叙述しようとするものです。
山路来て何やらゆかし菫草 (貞享二年(1685年) 芭蕉42歳)
この句は小学校の教科書にも載っているほど、超有名な俳句です。山路というのは恐らく峠の昇り路で、峠の頂に辿り着き、ヤレヤレと一服したとき、菫が眼に入ってきた、というものです。私はこの句からはいつも、<杜 牧>の清明や<漱石>の草枕の冒頭の部分を連想しています。
清明の時節 雨紛紛
路上の行人 魂を断たんと欲す
借問す酒家は 何れの処にか在る
牧童遥かに指さす 杏花の村
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
芭蕉は野ざらし紀行の途次、貞享元年12月に帰郷し翌年2月まで滞在、2月中旬に奈良興福寺の薪能、二月堂のお水取りを見物し、2月下旬からは京都鳴滝の三井秋風の別荘に半月ほど滞在、3月に伏見を経由して大津に向かっています。
この句の前書きには、”大津に出づる道、山路を越えて” と書かれています。山路についてはこれ以上の記述はないので、どのルートであったのかは、複数の候補が考えられます。京都から大津へ出るには、比叡山から稲荷山に連なっている東山連峰を越えなければなりません。新幹線で京都に向かうときには、大津を過ぎたところでトンネルに入りますが、昔はその山を徒歩で越さなければならなかったのです。
道は当時、幹線である東海道の他に、2本の山越えの道がありました。一つは「志賀越え」と言われている道で、鴨川東岸の荒神口という処から東一条に至り、京都大学の時計台キャンパスとなったところを斜めに横切って北白川に出て、比叡山の南麓を縫うようにして山を越えるというものです。京都大学は幕末に造られた尾張藩邸の跡地ですから、志賀越えの道は幕末には既に寸断されていたことになります。このルートを主張しているのは山口誓子で、その著「芭蕉秀句」の中で、「大津に至る道、山路をこえて」の「山路」は山中越えなどの細い路を思わしめる。それならば「志賀の山越」であろうか。と記しています。志賀越えは別名として山中越えとも言われていますので、そこからの類推でしょうが、このルートはあまりにも距離があり過ぎ、現在では、もう一本南の小関(こぜき)越えであろうと推測されています。
このルートは京阪電鉄の四宮駅から山科疎水に沿って琵琶湖に向かおうとするもので、疎水がトンネルになっているところを、山越えするというものです。現在この道は山越えの峠のところが旧道のまま遺されています。


芭蕉のこの句は、湖南市で石碑となっています。

芭蕉は近江には何度も来ていますが、この句は近江で作った句の中で最初のものです。貞享2年3月、近江に滞在したのはわずか2週間のものですが、芭蕉はこの間に5句を創っています。次稿では唐崎を詠んだ句を取り上げることにします。


