山小舎便り(18)-諏訪明神の嫁 令和6年5月7日ー
そろそろ2年目の山小舎生活が近づいて来ました。蓼科高原の標高1700mの処にある山小舎、この五月連休に3泊で行って来ました。昨年10月以来のことで設備のチェックを兼ねたものですが、幸いに何も問題は起きてなく一安心しました。途中、標高1300mの蓼科湖の近辺の桜は既に終わっていましたが、標高1700mは流石にまだ寒く、普通の桜は満開、山桜はこれからという状態でした。昨年10月に植えたヨツバヒヨドリの苗は、茅ケ崎に持って帰り鉢植えした一株は芽出しをしたのですが、山荘で植えた二株は芽を出していませんでした。
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茅野には諏訪神社の上社があり、その祭神である建御名方(タケミナカタ)の息子の妻となった多留姫を祀った多留姫神社というのがあります。多留姫とはタケミナカタが諏方に入る前に、この地を治めていた洩矢神(モレヤ)の姫です。

ここは滝を巡る自然文学公園となっていて、遊歩道に沿って句碑や歌碑が置かれています。10年余り前に一度行った処ですが、今回再訪してみました。

石碑の多くは地元の文人のものですが、芭蕉が創った句の石碑も置かれています。


建御名方は古事記に記載されてる敗者側の人物です。古事記では大和王権の出雲侵略に抵抗し敗北し諏方まで逃げて降参したという、哀れな弱者となっています。古事記での記述はそこまでで、諏訪地方の伝承では、諏訪に入るに当たり在地勢力と戦ってそれに勝利し、在地の神々に代わって諏方明神として祀られたということになっています。多留姫とは在地の最有力者であった洩矢神(モレヤ)の姫で、それを建御名方が息子の嫁にしたことによって、建御名方と洩矢とは相互扶助の関係となり、建御名方の子孫の諏方氏が上社の現人神である大祝(おおほおり)、洩矢の子孫である守矢氏が神職のトップである神長官ということになり、二人三脚で明治維新まで諏訪大社を維持することになったのです。
降参した建御名方の諏訪での活躍は、古事記にも日本書紀にも、全く記述されていません。いわんや多留姫においておやです。大和王権からみれば、諏訪神社のような存在は煙たいもので、アマテラスとは別の系統の神の流れが存在することは、消し去りたかったのではないでしょうか。私の仮説は、諏訪の在地勢力というのは、諏訪地方に多くいた縄文系の末裔で、そこに出雲のような弥生系の人が入って来て、始めは争ったが後に共存したという歴史的事実に基づいているのではないかと考えています。そうすると、自己宣伝に満ち満ちている古事記や日本書紀よりも、諏訪の伝承のほうが、説得性に富んでいるのではないかと思うのです。
滝を眺められるところに、載酒亭という名の東屋があり、茅野市が投句箱を置いていたので、次の句を出して来ました。入選すれば市庁舎に短冊が掲示されることになっています。
五月雨を集める滝や載酒亭 游々子
