俳句的生活(279)-芭蕉の詠んだ京・近江(2)辛埼の松ー

貞享2年(1685年)3月の旅、芭蕉は「野ざらし紀行」で、”大和より山城を経て、近江路に入りて美濃にいたる” と記しています。この時初めて近江で二人の門人を得て、芭蕉はそうした門人宅に宿泊し、5句を詠みました。

辛崎の松は花より朧にて  (貞享2年3月 芭蕉42歳)

辛崎の松は湖岸にあり、その松は背後の山の桜よりも朧で風情がある、という句です。

唐崎の松
唐崎の松

現在の松は明治20年に植えられたもので、3代目ということになっています。今DNAを引き継ぐ形で4代目の松の苗が30数本準備されているそうです。芭蕉の時代の松は2代目ということになり、それは天正19年(1591年)に植え替えられたもので、安藤広重の浮世絵にも描かれています。

唐崎の夜雨
広重の「唐崎の夜雨」

初代の松については、ウイキペディアでは次のように説明されています。

日吉大社の社伝(『日吉社神道秘密記』)によれば、舒明天皇6年(633年)、琴御館宇志丸宿禰ことのみたちうしまるがこの地に居住し「唐崎」と名附けたといい(途中略)境内には、宇志丸宿禰が植えたのに始まるとされる「唐崎の松」がある。

もしこれが初代とすれば、飛鳥時代から天正まで900年以上も経ていますから、実際は何回か植え継がれてきたのでしょう。

「唐崎の夜雨」は近江八景の内の一つです。八景とは元々は中国の北宋時代に成立した瀟湘八景をベースとしたものですが、近江八景は慶長期に時の関白が詠んだ和歌に由来するものとされていて、芭蕉の時代には既に近江八景なるものは存在していたことになります。唐崎が飛鳥時代に既に景勝の地であったことは、万葉集に載っている柿本人麻呂の和歌からも読み取れます。

ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ

万葉仮名で唐崎は ”辛崎” と表記されています。広重の浮世絵には唐崎の字が使われていますが、少なくとも芭蕉の頃までは、唐崎は辛崎だったのです。この歌には擬人法が2か所で使われています。”幸” も ”待つ” もその主語は ”辛崎” で、この擬人法について斎藤茂吉は「万葉秀歌」で、”現代の吾等は、擬人法らしい表現に、陳腐を感じたり、反感を持ったりすることを止めて、一首全体の態度なり気魄なりに同化せむことを努むべきである。” と述べています。

芭蕉のこの句ですが、気になる個所が二つあります。一つは、花と朧という二つの春の季語が使われていること。もう一つは、下句が ”にて” という叙述で了えていることです。この「にて」止めについての議論が、弟子たちの間であれこれ為されたとき、芭蕉は「深い意味はない、ただ松の方が花より朧で面白かっただけ」と答えたそうです。