俳句的生活(253)-蕪村の詠んだ京都(10)灯火ー

本稿より、蕪村の俳句をジャンルに分けて、代表的な句の幾つかを紹介していくことにします。最初に取り上げるのは、蕪村の俳句と絵画において大きな比重を持つ ”灯火” からです。

嵯峨野の夜の絵(蕪村)

この絵は嵯峨野の夜を描いたものです。民家の灯りが消えてあたりは真っ暗になっているのですが、あたかも真昼のような描き方になっています。そのことが判るのは、賛に書かれている次の句からです。

花の香や嵯峨の燈火(ともしび)きゆる時  (安永6年 蕪村62歳)

絵の右手前には嵯峨野の竹林、その奥には桜が描かれ、左には窓が黒く塗られた民家が並んでいます。民家の燈火が消えた時、あたりは真っ暗となり何も見えなくなるが、ほのかに花の香が漂い、桜の存在を知らせてくれる、という句です。当然ではありますが、蕪村の灯火の句には人間生活の息遣いが伝わって来ます。

ところで当時の嵯峨野がどんな処であったのかを示すものとして、蕪村の盟友であった炭太祇(1709-71)に次の句があります。

耕すやむかし右京の土の艶  

嵯峨野を含む現在の右京区は、王朝時代の面影は消え失せて農地になってしまっていたのです。蕪村と太祇とは島原で夜遊びもしていて、蕪村の句に一条もどり橋のもとに柳風呂といふ娼家有。ある夜、太祇とともに此楼にのぼりてと前書きのついた

羽織着て綱もきく夜や川ちどり  (明和5年 蕪村53歳)

というのがあります。「もどり橋」とは一条堀川に架かる橋で、渡辺綱が美女に化けた鬼の腕を切り落とした所です。「綱」とは渡辺綱にちなんだ娼妓の源氏名。遊女は客席では羽織を着ない習わしですが、この日は「綱」が蕪村か太祇のどちらかの羽織を着て、千鳥の声に耳傾けた、という句です。

太祇は蕪村より7歳年上の洒脱な人でした。

窓の燈(ひ)の梢にのぼる若葉かな  (明和7年 蕪村55歳)

光が梢を走り昇り、若葉を照らすというモチーフは、「闇夜漁舟図」にも描かれています。

闇夜漁舟図(蕪村)
闇夜漁舟図

この絵は舟の中央でかがり火が焚かれ、その焔が樹の枝を照らすというものです。その向こうには民家の窓から明かりが照り出していて、そこにも人が住んでいることを示す絵となっています。

野分止んで戸に灯のもるゝ村はずれ  (明和5年 蕪村53歳)

民家に灯火の点いたことで、野分あとの安堵感が巧みに詠まれています。この句の巧みな点は、遠くに見える民家のことを、そうした説明的な言葉を使わず単に、”村はずれ” としたことにあります。遠くからでも、住んでいる人の安堵感が伝わってくる句になっています。

秋の燈やゆかしき奈良の道具市
門のなき寺に燈ともす時雨かな  (安永6年 蕪村62歳)

古都奈良の燈火、無住と思えた寺から灯りが漏れてきて、そこにも人が住んでいたという句です。灯りを通じて人を詠む、これが蕪村の灯火の句です。極めつけの灯火の一句は次のもので、ここでは人の存在がよりはっきりとしています。

住ムかたの秋の夜遠き灯影かな  (安永8年 蕪村64歳)

この句には ”閑燈” という探題(現在でいう兼題)がつけられています。住まいは遠くにあっても、灯影がその距離を一気に縮めてくれる、という句です。

最後に芭蕉の句との対比をしてみます。

さみだれや 大河を前に 家二軒  (安永6年 蕪村62歳)

 この句は、芭蕉の「さみだれを集めて早し最上川」を意識して作ったものであることは明らかです。芭蕉の句は五月雨そのものを詠んでいて、人は全く見えてきませんが、蕪村の句は ”家二軒” ということで、そこで支え合って生活している人を詠んだものです。夕方になれば ”灯り” が点されるであろうと想像させる句となっています。