俳句的生活(252)-蕪村の詠んだ京都(9)蕪村開花ー

蕪村の足跡を辿り、前稿で俳句宗匠になるところまで来ましたが、蕪村の名句中の名句である「月天心」の句を紹介し忘れていたので追記しておきます。

月天心貧しき町を通りけり  (明和五年)

この句は蕪村が夜半亭二世を継承した年の二年前、蕪村53歳のときの作です。一般にこの句の解釈は、石田郷子の名句即訳の空の真ん中に名月がかかっているその下を、ただ独り歩いて行く。貧しげな町並みの中を通ってのように、人が通っていくとなっているのですが、私は、月が貧しい町並みを照らしながら通っていくと解釈しています。当然のことながら、この町並みは京都の町衆の家並みです。

蕪村が俳句宗匠になって爆発的に開花したのは、皮肉にも俳句ではなく、絵画の方でした。俳句宗匠となった翌年、池大雅との合作である「十便十宜図」を描いています。この図は中国の明末の詩人が、隠遁生活の快適さを詠んだ詩に、池大雅と蕪村がそれぞれ十枚の絵を付けたものです。この絵の発注者は池大雅の書の弟子である美濃の素封家で、蕪村をパートナーとしたのは池大雅の方でした。池大雅の居宅は八坂神社と高台寺の間にあり、烏丸通の西側の蕪村の家からは結構離れていましたが、この頃より交流が始まっていました。国宝「十便十宜図」は現在は川端康成記念会の所蔵となっています。

蕪村の十宜図(宜春)
蕪村の十宜図(宜春)

蕪村と池大雅の絵は、銀閣寺方丈の襖絵としても残されています。

銀閣寺の襖絵(蕪村)
銀閣寺の襖絵(蕪村)

蕪村の絵は、当時、関白太政大臣として朝政を司っていた近衛家からも、三幅対の注文を受けていて、超一流の評価を受けるまでになっていたのでした。

月天心素振る竹刀の切っ先に  游々子