俳句的生活(226)-虚子の詠んだ京都(4)鴨川ー

京都市中を南北に流れる鴨川、その堤は東京の隅田川のようにコンクリートで固められることなく、全域が親水公園のように整備されていて、鴨川原は恰好の散策場所となっています。

頻繁に京都を訪れた虚子にとってそれは、納涼の川床であり、大文字の送り火を見物する堤であり、葵祭の行列を見送る場所でありました。

浅き水に灯のうつりけり床涼み  虚子(明治31年)

鴨川の川床
先斗町の納涼床の下を流れるみそそぎ川

京都の夏の最大の風物詩は、三条から五条にかけて鴨川沿いに組まれる納涼床でしょう。先斗町の料亭が本流と並行して流れる小川の上に高床を張り出したものです。この小川 ”みそそぎ川” と呼ばれていて、賀茂大橋の下流で水を採り、しばらく暗渠で流れた後、丸太橋の下流で地上に現れ、五条大橋の上流で再び鴨川に合流するというものです。

明治31年8月、虚子は松山の母親が病気となり、見舞いの帰途、京都に立ち寄りました。句は見舞いのことには一切触れず、眼の前の納涼の灯りだけを詠んでいるところが、いかにも虚子らしい句となっています。

川風に雪洞運ぶ床涼み  虚子(昭和5年)

昭和の初めになっても、灯りは雪洞であったことが窺えます。

大文字を待ちつゝ歩く加茂堤  虚子(昭和2年)

昭和2年8月16日、高野山からの帰途、虚子は京都に立ち寄っています。送り火の見物ですが、虚子はその場所を、出町柳での合流地点より少し賀茂川上流の葵橋で行っています。三条や四条の川床からの見物だとより風情を増すのですが、位置的にそこからだと「大」の字が斜めになってしまい、適さないのです。一番「大」の字に正面で向き合うのは今出川通りの ”賀茂大橋” ですが、同時に又そこは一番混雑するところであるので、虚子はそれを避けたのでしょう。下の写真は賀茂大橋の畔から撮った大文字山です。

大文字
賀茂大橋畔からの大文字山

余談となりますが、”かも川” の名称、我々が教わっているのは、出町柳の合流より上流は ”賀茂川” 下流は ”鴨川” というのですが、現実は必ずしもこのようにはなっていません。賀茂大橋の近くにある交番の名称が ”加茂大橋交番” となっているのです。

加茂大橋交番
加茂大橋交番

また、昭和30年に三橋美智也が歌った ”ああ新選組” の出だしは、”加茂の河原に千鳥が騒ぐ” となっていて、新選組が活躍した池田屋などから、どうしても鴨川でないと辻褄が合わないのですが、江戸時代、おそらく書体の簡便さから ”加茂” が多く使われていた、その名残りではないかと推測しています。

しづしづと馬の足掻や加茂祭  虚子(昭和4年)

葵祭
葵祭での馬の行列

虚子が見た昭和の初めの葵祭は、勅使行列だけのもので、現在のような斎王代の行列はありませんでした。それが復活したのは昭和31年になってからです。足掻(あしげ)とは馬が前足で地面を掻いて進むこと。ここでも加茂が加茂祭として使われています。

今年、雨の予想で1日順延し5月16日に行われた葵祭での斎王代は、外資系に勤める才媛が選ばれました。京都の伝統も少しづつ変化していくのかも知れません。

斎王代
斎王代(令和五年)

光満つ中で待ちけり加茂祭  游々子