俳句的生活(225)ー虚子が詠んだ京都(3)四夜の月-
万葉の昔から現在に至るまで、月を詠んだ和歌や俳句がどれだけあるのか、興味あるところです。母集団を決めればその数は勘定でき、手っ取り早く「百人一首」をサンプルにすれば、月を詠んだ歌は12首となっています。
昔の夜は、今よりずっと闇に包まれた世界でした。そんな夜空に輝く月の光は、人々にいろいろな想いを搔き立てたからこそ、沢山の和歌や俳句が出来上がったのでしょう。一夜ごと、月に名前がついているのは世界の中で日本だけです。
俳句の世界では、旧暦8月15日の前後に連続して月を詠むという ”遊び” が江戸の頃より行われていました。三夜続くので、”三夜の月” と呼んでいます。芭蕉は ”三夜の月” を2回ほど行っています。1回目は1688年(貞享5年)更科(現千曲市)で仲秋の名月を初日にして3日間、2回目は1691年(元禄4年)琵琶湖の堅田で仲秋の名月を挟んでの3夜となっています。
錠明けて月さし入れよ浮御堂 芭蕉(元禄四年八月十五日)
明治37年10月、虚子たちは ”後の月” と呼ばれる旧暦9月13夜を初日として、4日連続しての ”四夜の月” を敢行しています。この句行は、漱石の門下生である松根東洋城の、黒谷の真如堂の下宿に夕刻集合するところから始まっています。明治37年は、10月21日が旧暦9月13日、すなわち後の月でした。
九月十三夜
黒谷がまず打つ初夜や後の月
真如堂は黒谷にあり、そのお堂の鐘の音で ”四夜の月” は始まっています。この鐘は太平洋戦争中に軍に供出されるのですが、運よく溶かされることなく戦後、真如堂に戻されています。余談ですが黒谷には幕末に京都守護職の本陣が置かれた金戒光明寺という寺があります。しかしここでは手狭ということで、2年後には御池通りに面して京都守護職屋敷が造られています。明治になり京都府庁に引き継がれた処です。
大文字の片側見ゆれ後の月
深草の元政の後の月夜かな
元政とは、元政上人の作った深草の瑞光寺を指しています。虚子たちは、夜中にこの寺に宿を乞うのですが断られて、伏見に出てこの日の宿をとっています。それを詠んだのが次の句です。
鶉さえ鳴かずなりしか俗な僧
十四夜
二日目は洛北の鞍馬に向かっています。この日は鞍馬の火祭りで、現在は「時代祭」の夜に行われています。火祭りは平安の昔に、内裏に在った神社を北方の守護とするため鞍馬山の麓に遷し、鴨川に生えていた葦を篝火として道々に点灯したことが起源となっています。虚子は、明治37年11月「ホトトギス」に載せた「四夜の月」の中で、このときの情景を次のように書いています。
鞍馬の町は煙の中に埋まっている。月が其煙の上にのっかって居る。家々の門の前には山のように積み重ねた薪が音をして燃えて居る。男も女も大人も子供も、松明を振って町中を狂ひ廻って居る。京、大阪あたりから集まって来た群衆は火の粉を浴びて波を打って居る。剣鉾が焔の中に行き難で居る。神輿が松明に包まれて石段を逆落しに下りてくる。男はサイレイと叫ぶ、女はサイレウと囃す。
火祭りや声からしたる鎧武者
十五夜
10月23日、鞍馬を出立した一行は、仰木峠を越して比叡山に登っています。仰木越と呼ばれたこの道は大原から滋賀の仰木を結ぶ道で、比叡山に登る道にもなっています。以下、虚子の「四夜の月」より。
仰木越を越して比叡の裏山伝いを横川中堂に出た時はもう日暮である。ここから東塔の大学寮に行かねばならぬ。途中で遇った山樵に聞くと、此処から大学寮までは五十丁の山路で夜は一人も人は通らぬ、といふ。松明を作って呉れぬかと頼む。竹がないから出来ぬといふ。中堂は大きな建物じゃがしんかんとして音もしない。正面の格子戸から覗いて見ると、暗い宝前に唯常夜灯が二つ寂し気に灯ってゐる許り。
秋風の吹きも消たずよ常夜灯
十六夜
翌日一行は坂本に下りています。
四人湖の月を見に行く。芭蕉が見た堅田の月は彼方じゃと眺めると、其の方から風が吹いてくる。ぢゃぶぢゃぶと細波が岸辺の蘆を打つ。叡山が眞黒に聳えて居る。八王子の森に灯が一つちらついて居る。
叡山をうしろに琵琶の月夜かな
雲を出て湖の月となりにけり
元禄の面影に立つ月夜かな
此行やいざよふ月を見て終る
此の行は、最後まで芭蕉の ”三夜の月” を意識したものであることが見てとれます。それにしても、明治の人たちの健脚ぶりには驚くばかりです。虚子は「四夜の月」の稿を次の一文で締めています。
芭蕉が湖水の月だけを見たのは無精じゃ。下駄ばきで鞍馬叡山を駆けづりまはった己等の方が余っ程えらいや。エヘン
月天心素振る竹刀の切っ先に 游々子