俳句的生活(215)ーどうする家康(4) 早川殿ー

1昨日のNHK大河「どうする家康」は、今川氏真にスポットライトが当てられた回でした。そして彼以上に輝いて描かれていたのは、正妻の早川殿でした。

早川殿

この晩年の肖像画は、夫妻の死後、下の氏真像と共に孫の代に描かれたもので、仲の良かった夫妻を象徴するように、向き合った姿となっています。

氏真像

彼女が早川殿と呼ばれる所以は、掛川城を出て実家の北条氏に身を寄せた処が、小田原近郊の早川郷であったからです。父である氏康は北条氏の三代目で、上杉謙信とも武田信玄とも戦って、一度も負けたことがない関東の覇者でした。婚家が没落しても実家が健在であったことは、僥幸であったといえます。

ドラマは、1回目の時に予想したように、義元が桶狭間で討たれる以前の、駿府での幸せな刻が何度も回想されています。氏真は家康の臣下となり、早川殿との間にもうけた4人の男子の内二人は、二代将軍秀忠の時に、1000石の旗本として仕え、孫の代には、三代将軍家光が日光東照宮を大改修したとき、朝廷と交渉し、”宮” の称号を得ることに貢献しています。更にその子孫は、鳥羽伏見のあと幕府が終焉を迎えた時、朝廷との繋がりによって若年寄となり、十五代将軍慶喜の助命嘆願を行っています。

早川殿の生年は諸説あって確定できていないのですが、氏真とほぼ同年の可能性が高く、75歳ぐらいまで生きたと推測されています。高家旗本となった今川氏は、現在の杉並区に知行地が与えられ、邸宅があった処は今も、今川町と呼称されています。菩提寺は杉並区今川町の観泉寺、

観泉寺

そこには今川氏累代の墓所があり、早川殿と氏真の墓は並んで作られています。

今川墓所

左から2つ目のものが氏真の墓、その右隣のものが早川殿の墓です。60年間、夫唱婦随(婦唱夫随?)で難局を乗り切った夫妻、ある意味、この時代の異色な勝者であったのかも知れません。