俳句的生活(14)-平塚宿ー

平塚駅の西300mにある江戸口見附から、古花水川の手前の京口見附までの1.2kmがかっての平塚宿で、50軒ほどの旅籠が、東海道の両脇に軒を連ねていました。本陣や脇本陣もあったので、参勤交代でも使用されたのでしょう。江戸口見附の標高を、国土地理院の地図でチェックしたととろ、5m強となっていて、筆者の住居の地より、1m強高くなっています。この差が洪水時には大きな意味を持っていたと思います。。見附という言葉ですが、赤坂見附や四谷見附など江戸の見附には、番兵が置かれて江戸を守る施設でしたが、宿場町の見附は、江戸での木戸番のようなものではなかったかと筆者は推測しています。江戸時代、日本橋を出発した人達が、どの宿場に泊まったかは興味あるところで、東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんは、1日目を戸塚宿に泊まり、2日目は小田原宿に泊まっています。その距離は40kmで、途中の藤沢、平塚、大磯の宿をスキップしています。当時1日40km歩くことが基本だったので、教科書どおりの行程だったといえるでしょう。当時の旅籠での1泊2食での料金は、3000~5000円で、なるたけ少ない宿泊で旅をしようと、当時の人達は考えたのです。旅籠は、現代人が考えるような日本旅館ではなく、基本的には相部屋であり、プライバシーというものはありませんでした。明治10年に、イサベラ・バードという英国の女性探検家が著した「日本奥地紀行」によると、彼女が宿泊したのは個室ではあったが、隣の部屋の日本人達が、仕切りの障子に穴をあけて覗いている、というような記述がされています。奥地(東北地方)では、明治10年といえど、まだまだ旅籠カルチャーの延長だったのでしょう。

西へ行く道問ふ人や蓮花草 游々子

平塚宿の説明板
平塚宿の地図
平塚宿石碑

本ブログ「俳句的生活」の内容の転載は自由です。