満蒙への道(33)-満蒙独立運動(2)ー

昭和10年代、内蒙古の独立を目指して活躍した蒙古人がいます。1902年(明治35年)生まれの「徳王」と呼ばれた人物です。徳王はチンギスハーンから数えて30代目の蒙古王族の末裔で、清朝の時代、彼の家は代々内蒙古で旗長を務めていました。

徳王

徳王はチンギスハーンの末裔であることを強く意識した英雄的気質の人物でした。内蒙古は北伐を完了した蒋介石の国民党政府により省県制が敷かれ、多くの漢人が入植し、牧草地を耕地に替えて行きました。

国民党政権は、徳王を省県の要職に就けるのですが、その理由は、徳王の旗地が張家口からウランバートルを結ぶ線上にあったためで、徳王たちが求めた高度の自治権を与えるものではありませんでした。張家口は、京都大学の今西錦司や梅棹忠夫たちが居た西北研究所が置かれた処で、街の北端の長城には、大境門と呼ばれる門があり、内蒙古へと繋がっていました。

大境門

国民党政権に失望した徳王は、政府の役職を辞任し、満州事変の後は、関東軍と接触をもち、関東軍の後ろ盾で、張家口に蒙古自治政府を作り、主席となりました。彼は昭和13年と16年に来日し、その都度昭和天皇に拝謁しています。天皇からは二度とも「東亜の平和を守る事業に協力してほしい」と言われたそうです。

徳王の関東軍との接触は蒋介石の了解を得ていて、その戦略は「自救自全」と呼ばれるものでした。それによって徳王は日本の敗戦後も、国民党政府から賓客の扱いをうけ、張家口での自治政府の主席を継続しています。ところが運命の暗転が訪れるのは、昭和24年に国民党が国共内戦で敗北したことで、徳王はウランバートルへ脱出したものの、そこで拘束され、長男は処刑、徳王は北京へ送還されることになりました。徳王は蒙古人であるにも関わらず、漢奸として裁かれ、12年の服役に処せられました。1963年に劉少奇による特赦で開放されますが、既に肝臓がんを病んでいて3年後に病死します。63年の生涯でした。

徳王たちの目指した内蒙古の高度自治は達成されないどころか、中国政府によってモンゴル語の使用禁止を含めた同化政策が推し進められています。漢人が入植した土地は、牧草地が耕地となり、その春塵が黄砂として日本に飛来しています。黄砂には中国工業地帯の大気汚染物質や、寒さに強い細菌が付着し、黄砂は研究者の間では「空飛ぶ化学工場」と呼ばれているそうです。