満蒙への道(32)ー満蒙独立運動(1)ー

「モンゴル」という国、朝青龍-白鵬―日馬富士―鶴竜―照ノ富士と相撲の世界で一連の横綱を輩出した親日的な国として知られていますが、かってはゴビ砂漠の北側に位置していた外蒙古が独立して出来た国です。一方、ゴビ砂漠の南側にある内蒙古と呼ばれていた地域は、戦前に2回ほどモンゴル人による独立運動があったものの、その志は果たせず、現在中国の圧政に苦しむところとなっています。本稿はその2回の独立運動を紹介しようとするものです。

1回目の独立運動は、辛亥革命が起きた1912年から1916年(大正5年)の間に、巴布扎布(バブチャブ)という内蒙古生まれの軍人によって起こされたものです。明の時代に韃靼(ダッタン)と呼ばれていたモンゴルは、最後のハーンが清朝の2代目によって殺害されて以降、清朝の外藩の位置づけとなり、辛亥革命を迎えます。清を引き継いだ袁世凱政権はモンゴルの支配権を手放そうとしなかったのですが、外蒙古だけはロシアが後ろ盾となって、なんとか中国からの離脱に成功しました。その時期に、内蒙古にも独立をと戦ったのがバブチャブという軍人です。

巴布扎布

彼は1875年生まれで、日露戦争では日本が馬賊を集めて組織した満州義軍に参加して戦闘を経験しています。外蒙古の新政権では、南東方面軍の指揮官となり、1916年7月、3000名を率いたバブチャブ軍は日本から武器弾薬の支援を得て、ハルハ河を渡り奉天を目指し、張作霖が指揮する中国軍との激しい戦闘を開始しました。日本の新聞は、現在のウクライナの戦況と同じように、連日詳しい現地報告を記事にしています。

私事になりますが、この時期私の祖父が満州駐箚師団の一員として、奉天の北の鉄嶺に赴任しているのですが、その連隊史には、駐箚師団の守備中隊が鄭家屯という処で中国軍による包囲攻撃を受けて11名が死亡したという事が記載されています。中国側は日本の守備隊を蒙匪と誤認したとの弁明をノラリクラリと続けたため、日本が謝罪と賠償を求めた日中の外交交渉は延々と続き、最終決着は翌年にまで及んでいます。

日本からの軍事支援が途絶えるようになった9月、バブチャブは内モンゴルに撤退することを決断し、途中、粛親王の許に託していた三人の男児を陣中に呼び寄せ、二日ほど天幕内で起臥を共にしています。日本の新聞は、楠公父子の桜井での別れに擬して報道しています。

残念ながらバブチャブは、遼河を渡河した1週間後に、戦死しています。日本は中国との関係を配慮して軍事支援を打ち切ったのですが、現在の内モンゴルの状況を見ると、残念な政治判断だったように思います。3人の子供達は日本で養育され、のちに満州国軍の将官となっています。そのうちの一人は、粛親王家の王女で ”東洋のマタハリ” との渾名を付けられた川島芳子と結婚しています。

川島芳子

現在のモンゴルでバブチャブがどのように評価されているのか興味あり、調べたいと思っているところです。