俳句的生活(211)ーどうする家康(2)ー

日脚伸ぶ海道一の城下かな  游々子

今年ほど ”寒中” の寒さを味わった年はありません。10年に一度という寒波が到来した日、花鉢の土が凍り花が萎れていたので、温水をジョロに混ぜて水温を15度にしたものを与えたところ、花は直ぐに元気を取り戻したのですが、鉢底から滴り落ちた水が凍って氷柱が出来てしまいました。

そんな中、季語 ”日脚伸ぶ” で一句作ってみたくなるような穏やかな一日があり、思い切って静岡まで行ってみました。もちろんお目当ては今年の大河「どうする家康」の駿府城の発掘状況を見てくることでした。

家康像

実を言うと静岡(駿府)には3年前に来ており、その際も駿府公園へ行き発掘作業が始まったばかりの天守閣跡を見学しているのですが、今回はその発掘が相当進んでいて、石垣も天正期のもの(家康が関東入府する前)と慶長期のもの(関ケ原のあと)とが区分されて案内されていました。次の写真が天正期のもので、大きな石の隙間に小さな石が埋め込まれています。

天正時代の石垣

これと比べて慶長期の石垣は、現在我々が眼にする城郭の石垣に似た作りになっていて、城づくり技術が進歩した様が分かります。

慶長時代の石垣

この発掘現場に来て感動したことは、富士山が見えたことです。駿府から富士山までの距離は茅ヶ崎からの約1/3ですから、その大きさは、我々が茅ヶ崎から見ているものの3倍になっているのです。家康が駿府を好んだ理由の一つが、この富士山の眺望にあったのかも知れません。

駿府城からの富士山

家康は駿府で大御所政治を行うのですが、この時期、江戸はまだ十分に整備されておらず、小判の鋳造は駿府で行っていたのです。金座の跡地は今は日銀の静岡支店になっています。支店の敷地内には金座があったことを示すモニュメントは何も無かったのですが、近くに金座稲荷神社というものがありました。

金座

静岡市の町割り図を見てみますと、金座という地名は勿論の事、城下町特有の町名が数多く付けられています。当時の駿府の人口は10万人で、江戸と同じであったそうです。町の区画も整然としています。京都との違いは、通りが東西南北ではなく、斜めになっているので、自転車で走る時、時刻と太陽の位置で方角を割り出すのに難儀しました。

静岡の区割り図

最後に訪れたのは、徳川慶喜が明治になってから過ごした浮月楼という料亭です。

ここは江戸時代には代官屋敷であったそうで、広さも慶喜時代は現在の2倍の3000坪という宏大なものでした。慶喜は多趣味の人で、自転車、カメラ、狩猟、弓などを楽しんでいたようです。浮月楼の中には、慶喜の人形があり、傍らには西洋人から貰ったという自転車が置かれていました。

慶喜像

慶喜は側室を二人持ち、明治になってから子供を10人余りもうけています。明治天皇より長生きした彼は、ある意味勝者だったのかも知れません。