満蒙への道(31)-満州事変前夜ー

日本の近現代史について、学校で教わる内容は正確でないことが多々あります。満州事変もその中の一つで、学校では陸軍の出先機関である関東軍が独断で起こしたものと教わりますが、事実はそうではなく、陸軍中央の首脳部の半数は事前に知る処であったのです。

満州事変は、1931年(昭和6年)9月18日に、関東軍による満鉄爆破という偽装工作によって火蓋が切って落とされますが、それよりも2年前の昭和4年には既に事変の下地となるものが進行しています。

(1)昭和4年、満洲事変首謀者の石原莞爾は、”満蒙問題の解決は、日本が同地方を領有することにより、初めて完全達成される” と満州領有論を展開しています。

石原莞爾

(2)昭和6年3月、当時陸軍中佐であった橋本欣五郎が、内閣転覆を図ったクーデターを画策(3月事件)。

橋本欣五郎

(3)昭和6年8月、南陸相が全国師団長会議で、満蒙政策に軍の関与をコミット。

南次郎

(4)昭和6年9月、満州事変前夜、参謀本部作戦部長の建川美次少将が留め男として奉天に入るが、料亭で酒を飲み過ぎて泥酔し、役目を果たせず。

建川美次

建川は日露戦争での奉天会戦の前に、露軍前線の後方を偵察し、露軍は奉天を決戦場としている状況を掴み、日本軍の勝利に大きく貢献した軍人です。

敵中横断三百里

この時期、中国人の民族意識は高まっていて、日露戦争で得た日本の権益を維持していくことが困難になっていました。中国はアメリカと協同で満鉄と並行する鉄道を作り、満鉄も経営は苦しくなっていました。結局のところ、日露戦後に日本が選択した満州の単独経営が破綻をきたし、満州を領有することによって、問題解決しようとする案が浮上してきたのです。

(2)の3月事件ですが、本来ならば厳罰に処罰されるべきところ、陸軍は表沙汰になることを避け、闇から闇にほおむっています。その理由は事件に陸軍首脳部の一部が関わっていたからです。関係者全員が陸大を出たという繋がりもあったのでしょう。因みに2.26事件を起こした青年将校の中には陸大卒のものは一人として居なく、全員銃殺刑となっています。クーデターの目的は、国内で満州領有を進める内閣をつくり、同時に満州で ”こと” を起こそうとしたのです。

(4)の建川少将の泥酔は、初めから関東軍の行動を止める気持ちはなく、面会すれば止めざるを得なくなるので、それを避けるために泥酔したものと解釈されています。

満州事変は、日本では大喝采で受け入れられました。あのエリート集団である旧制一高の生徒の9割は事変を支持し、マスコミも支持の論調を張っていきました。


しかしながら、海軍を大佐で退職し反戦の作家となっていた水野広徳は違っていました。水野は秋山兄弟と同じく四国松山藩の下級武士の出身で、彼の義理の伯母が秋山兄弟の従妹という関係になっています。

水野広徳

水野は満州は熟柿ではなく渋柿であると断じ、満州領有は日本にとって経済的利益はなく、アメリカとの関係がのっぴきならなくなる奇禍でしかないとしています。水野は昭和20年10月まで生き、彼が危惧した通りに日本が歩んで行ったことを、どんな気持ちでみていたことでしょうか。彼は満州国建国の翌年、次のような三首を詠んでいます。

甲はいふ、軍閥のあまりの暴状見る時は 戦へよ而して敗れよとさえ思ふ
乙はいふ、軍閥の暴慢如何に烈しきも 国敗れよと我は思はじ
僕はいふ、甲と乙是非は言はねど軍閥の 驕れる国は必ず破る

海軍大佐の反戦