俳句的生活(209)-安達氏ー

頼朝が伊豆に配流されていた時期、度々頼朝のもとに物資と情報を届けていた人がいます。安達藤九郎という人物で、頼朝の死後、鎌倉殿の13人の一人となりますが、ドラマでは、野添義弘さんが演じていました。

安達藤九郎

では、源氏の家人でもない藤九郎が何故これほどまでに頼朝に忠義をつくしたのかというと、藤九郎は妻に比企尼の娘を娶っていて、比企尼の要請で頼朝の従者となっていたのです。比企尼は頼朝の乳母で、頼朝が伊豆に流されている20年間、支え続けた女性です。ドラマでは草笛光子さんがその役を演じ、次の写真は比企尼が頼朝を思い切りビンタした印象深い場面です。

比企尼

彼女が頼朝の乳母となったのは、彼女の夫が京都に居た時、頼朝の父親である源義朝の家人となり、厚い信頼を得て妻が乳母となったといういきさつです。乳母となって10余年後に起こった平治の乱のときには、彼らは京都から武蔵国(現埼玉県)に移っていて、乱には加わらなくて済み、生き延びることが出来ました。平治の乱とは、平清盛が熊野詣で京都を留守にしていた時に源義朝たちが起こしたクーデターですが、義朝は源氏兵力を十分集める余裕がないまま、わずか200騎で奇襲攻撃をかけています。このとき清盛は不在でも、平家兵力は1000騎ほど京都に残っていましたから、圧倒的な兵力差で源氏が勝てる状況ではなかったのです。

藤九郎の妻となった比企尼の娘は丹後の内侍と呼ばれた女性で、なんと頼朝は彼女に子を身籠らせています。丹後の内侍は政子の追求を逃れて茅ヶ崎懐島の大庭氏の館に身を隠し、そこで産まれた子が薩摩島津氏の祖となったと言われています。

鎌倉時代を通じて、北条氏と縁戚関係を続け、北条氏に次ぐ第2の権力を維持した御家人はこの安達氏です。藤九郎の孫娘は北条泰時の嫡男の正室となり、第4代、5代執権の母親となった松下禅尼です。2001年のNHK大河「北条時宗」では、藤純子さんがその役を演じています。

松下禅尼

彼女は「鉢の木」の逸話で有名な5代執権の北条時頼を名執権に育てた母親として、戦前の歴史教育では良妻賢母の例となり、広く教えられていました。

安達氏にとっての最大の繁栄とピンチは、松下禅尼の甥にあたる安達泰盛の時代に訪れます。泰盛の妹の覚山尼は北条時宗の正室となり、義兄として時宗と共に蒙古来襲に対応しています。彼は鎌倉武士にとって最も重要な恩賞担当となり、蒙古絵詞では彼の鎌倉甘縄での屋敷での、竹崎季長の直訴に対応している図が描かれています。

蒙古襲来絵詞

NHK「北条時宗」で安達泰盛を演じたのは柳葉敏郎さんでした。

安達泰盛

時宗の正室の覚山尼は泰盛の妹で、白梅の名所の東慶寺を開山した人です。時宗の死後、得宗家の家人が得宗を上回るほどの権力を持つようになり、泰盛は家人との争いで敗死してしまいます。霜月騒動と呼ばれるこの乱で、安達氏はいったん没落しますが、これで滅んだのではなく、泰盛の甥の娘が北条氏に嫁ぎ、14代執権の高時を生んで、幕府末期に再び権力の座に戻っています。

霜月騒動では、茅ヶ崎を治めていた二階堂氏が没落し、代わりに大仏流北条氏が支配者として入ってきます。大仏氏とは、鎌倉殿のドラマでは瀬戸康史さんが演じた義時の弟の時房の子を祖とする北条氏の分流です。新田義貞の鎌倉攻めでは、地の利を生かしての極楽寺坂口の防衛を担当し、鎌倉方では最も奮戦した武将となりました。