俳句的生活(204)ー鎌倉殿(実朝の唐船)ー

昨夜のNHK大河の鎌倉殿は、後鳥羽上皇の後ろ盾を得た実朝が、北条義時らの反対を押し切って唐船を建造し、由比ガ浜で進水しようとするものの、遠浅の砂浜では枕木が砂に埋もり、失敗するというストーリーでした。

実朝の唐船俳句

現代人から見ると、造船に無知な人の進水式であったと思いますが、当時の由比ガ浜は浦と呼ばれていて、舟の出入りできる入江にもなっていました。頼朝が鶴ケ岡八幡宮を修復するために木材を揚陸させたのも材木座でありました。

実朝は、自らが宋に渡るために大船を作らせたと言われていますが、私はそうではなく、実朝は大船の所有者として、自ら日宋貿易を仕切りたかったのだと思います。それによってのみ、北条氏や御家人たちからの縛りから抜け出せることを理解していたのでしょう。平清盛は神戸の大輪田に大船の碇泊できる泊りを築きましたが、平氏政権で船を所有することはなく、あくまでも日宋貿易の主役は宋の商人でした。名実ともにそれを実行したのは明との勘合貿易を行った足利義満です。足利の直轄地は少なく、封建的な財政収入は少なかったのですが、日明貿易を独占したことで、義満は大きな権力基盤を得ることができました。もし実朝に義満と同じ事ができていれば、その後の鎌倉時代というものは全く違ったものになっていたでしょう。

実朝の大船の失敗を由比ガ浜で見た北条泰時は、自らが三代執権となってから、鎌倉と逗子との境界となる沖合200mの処に、和賀江島という人口島を作り、大船が碇泊できる施設を作りました。

和賀江島俳句

現在の和賀江島は長年の波の浸食を受けて、干潮時にのみその姿を現すようになっています。泰時は御成敗式目という日本の実情に即した初の法律を作るなど、日本史上、屈指の名君であったと言われていますが、それでも土地本位の武士たちのリーダー以上のことに想像を巡らすことはありませんでした。

宋への憧憬を絶ち難かった実朝は、宋より仏舎利を取り寄せ、自ら創建した大慈寺に納めました。円覚寺の舎利殿というものは、後にその舎利が移動された僧堂です。

円覚寺仏舎利俳句

昨夜の大河にも登場していますが、実朝が宋へ渡航を考えるようになったのは、宋の工人である陳和卿という人物が実朝に、「将軍の前世は、宋の医王山の長老であり、自分はその弟子であった」と述べたことがきっかけであるとしています。それに対して実朝は、自分も夢の中に現れた高僧に同じことを言われたと、吾妻鏡には書かれています。この吾妻鏡の記述は北条の作為によるもので、実朝の本意を曲げたものと思っています。どだい、まだ上洛すらしていない青年が、いきなり宋へ渡るなど発想するわけがありません。

寒川の田端に、医王院という医王山と名がよく似た寺があります。創建が平安時代前期で本尊が薬師如来となっています。実朝との関係は無いとは思いますが、写真を掲げておきます。

田端医王院俳句