俳句的生活(203)-鎌倉殿(稲村ケ崎)ー

先日の永福寺に続いて、今日は稲村ケ崎へ自転車を走らせました。永福寺が鎌倉幕府創建のときのものであるのに対して、稲村ケ崎はその滅亡に関わる処です。

七里ガ浜の磯伝い
稲村ケ崎名将の
剣投ぜし古戦場

この七五調の歌詞は、文部省唱歌「鎌倉」の一番のものです。七里ガ浜も稲村ケ崎も、134号線を車で走る時や、江ノ電に乗ったときなどは、その前を通過するのですが、いずれも浜を見る事が出来ないので、自転車で行って浜を見てこようというのが、今日の目的です。

七里ガ浜俳句

この写真は、小動(こゆるぎ)岬から見た七里ガ浜です。小動岬から稲村ケ崎までの2.9kmが七里ガ浜ですが、七里にはるかに及ばない距離のものが、何故七里ガ浜と呼ばれているのには、諸説があるようです。

鎌倉攻めの新田義貞軍は、藤沢の遊行寺あたりに本営を構え、そこから化粧坂(けわいざか)、巨福呂坂(こぶくろざか)、極楽寺坂の3つの切通しに向かって軍を進めています。極楽寺に向かっては、鎌倉街道を通ったはずで、七里ガ浜は通っていないはずです。どの切通しも突破できなかった義貞は、稲村ケ崎の磯を廻って由比ガ浜へ出ています。

稲村ケ崎俳句

この写真は、七里ガ浜から見た稲村ケ崎の先端の部分です。義貞は黄金の太刀を海に投げて竜神に祈願し、潮を引かせたということになっていますが、貧乏御家人であった新田氏にそんな太刀があるはずがありません。しかもこの日は旧暦5月22日、満月と新月の中間で、潮の干満が最も少ない日でもあります。どのように徒渉したのか、謎が残ります。

極楽寺坂の防衛を担っていたのは、二階堂氏の後、茅ヶ崎を支配していた大仏(おさらぎ)氏でした。大仏氏は北条の支流です。義貞軍が由比ガ浜から鎌倉に乱入したあと、鎌倉は火の海となり、切通しの防衛線は総崩れとなり、大仏氏はそこで滅亡しました。

今は公園になっている稲村ケ崎、義貞が太刀を投じている像があるかと期待していたのですが、残念ながら石碑が立っているだけでした。

新田義貞碑俳句

松に隠されている石碑の下の方の文面は、”義貞徒渉伝説地” となっています。私たちに馴染み深い剣を海に投げた絵画は次のものです。

新田義貞黄金の太刀俳句

義貞ファンの一人としては、この絵のような像を創っていて欲しかったです。その代わりなのか、明治天皇が詠んだ和歌の石碑が建てられていました。

明治天皇御歌俳句

歌は、「投げ入れし剣(つるぎ)の光あらはれて千尋の海もくが(陸)となりぬる」というもので、裏面には昭和19年建立となっています。

義貞には明治15年に、正一位が贈られています。ライバルであった足利尊氏は贈従一位ですから、官位の上では尊氏を凌駕したことになります。徳川氏は新田の末裔であることを名乗って、征夷大将軍になっているので、江戸時代に追贈されていてもおかしくなかったのに、と思います。

義貞は不器用ではありましたが、徹頭徹尾、至誠の武将でありました。こうしたところが日本人には好まれる由縁であるのでしょう。

稲村ケ崎公園からは、遠く緑の江ノ島が眺められました。

江ノ島遠景俳句