俳句的生活(2)ー旧相模川橋脚ー

馬入橋から1国を東に2kmほど行った処に、旧相模川橋脚の史跡があります。関東大震災で突如田んぼの中に出現したものです。今は保存のために、本物は地下に埋められていて、池の上に見えるものはレプリカになっているのですが、幸いなことに、茅ヶ崎に引っ越してきた昭和54年当時は、保存工事の前で、本物を何年も眺めることができました。

この橋脚は、年代測定の結果、鎌倉に幕府が開かれた時期と符合するそうです。もしもこれが当時の相模川に架けられた橋であるとすれば、落成を祝って頼朝が通った橋であり、落馬して命を落とした橋ということになるのですが、単純にそうと言い切ってよいものか、筆者には引っかかることが二つあります。一つは橋の向きが南北になっていて、川は東西に流れていたということ。もう一つは、この旧橋脚が大きいといっても、現在の馬入橋とは比較にならない程度の代物なのです。。

相模川は昔より頻繁に洪水を起こしていました。茅ヶ崎と平塚のハザードマップを見ると、相模川が洪水をおこした場合には、茅ヶ崎側は南湖あたりまで、平塚側は平塚駅の近くまでが水没することになっています。江戸時代の平塚宿が平塚市の南西部であるのは、洪水を避けたいがためのものであったと推測できるのです。中世まではこの扇状地のようなところで、たびたび流路を変えていたのでしょう。江戸時代に橋が作られなかったのも判る気がします。現在のような馬入橋が作られたのは明治11年になってのことで、馬入橋としては最後の木製の橋でした。

葉桜やつわものどもが騎馬の橋 游々子
旧橋の脚を担ぐや花筏 游々子

旧相模川橋脚
大正時代の相模川旧橋脚の写真

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