俳句的生活(3)-新田義貞の鎌倉攻めー

過日、NHK BS放送の「英雄たちの選択」という番組で、新田義貞が取り上げられました。

新田義貞

番組で義貞は、愚直なまでに実直な武将として語られていて、主コメンテーターの磯田さんには、子供時分の彼にとって、義貞は途轍もないほどのヒーローであったそうです。私より二回り以上若い彼が、そのように義貞を受け止めていたことに驚いたのは、私自身もそうであったからです。

1国を更に2km東に行った十間坂に、第六天神社という社があります。かって、その神社の由来を説明した立て看板に、義貞の鎌倉攻めの際に兵火に遭い焼失、という記載がありました。藤沢から大分離れた茅ヶ崎でもそのような衝突があったのかと、ずっと気になっていたのですが、あらためて調べてみると、太平記に、鎌倉攻め開始直前の5月18日、村岡、藤沢、片瀬、十間坂、腰越の50か所に火を放つ、という記述がありました。第六天神社は、この十間坂を茅ヶ崎の十間坂と解釈して兵火に遭ったとして立て看板にしたのですが、今朝、境内でたまたま宮司さんと話をする機会があったので、そのことを尋ねてみると、十間坂という地名は腰越にもあり、太平記の中の十間坂はどうもそちらのほうのものであると今では解釈し、立て看板の記述から外したとのことでした。

茅ヶ崎はかって大庭御厨の懐島と称され、伊勢神宮への寄進荘園でしたが、鎌倉末期には北条得宗家の所有となっていました。そうしたことから、新田軍と地元の武士との間で衝突があっても不思議ではないと思っていただけに、今朝の宮司さんとの会話に少しばかりガッカリしました。

竜天に昇りし由比の磯づたい 游々子

第六天神社
第六天神社近影

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