満蒙への道(28)ー辛亥革命(3)ー

日露戦争での日本の勝利は、西洋に対する東洋の初めての勝利ということで、多くの東洋からの留学生が日本に来る画期となりました。とりわけ中国からは、日本で学位を取れば科挙に合格した扱いとされ、一時は1万人を超す学生が日本で学ぶ、という状況が生まれました。それは軍人の世界にも当てはまり、士官学校には、60余人の中国人が入学するということになり、辛亥革命での第二、第三革命は、彼らが中心となって行われました。

そうした彼らと士官学校時代に盟友となり、中国に渡り、彼らを支援する軍人がいました。満蒙への道(5)の、”奉天か鉄嶺か” で、「敵中横断三百里」という本を紹介しましたが、その著者である山中峯太郎という軍人がその人です。

敵中横断三百里 プレバト俳句添削

「敵中横断三百里」は昭和5年に書かれた本ですが、血湧き肉躍る内容のもので、当時の少年の間での大ベストセラーとなったものです。

山中は陸軍幼年学校から士官学校に進んだ軍人です。幼年学校とは高等小学校のあとの3年間の養成コースを経て士官学校に入るというもので、旧制中学の5年を経て士官学校に入ってきたものと、同年齢になるようになっていました。山中はその幼年学校を首席で卒業し、恩賜の銀時計を貰い、明治天皇の前で、ペルシャ戦争について御進講しています。彼は連隊付き将校となったあと、少尉のとき早々と陸軍大学に入学したという英才です。通常は中尉になってから受験するものですが、少尉で陸軍大学に入ったのは、日本陸軍において彼一人となっています。

その陸軍大学在籍中に、中国では反袁世凱を掲げての、第二革命が勃発しました。起こしたのは山中の士官学校からの盟友である李烈鈞という軍人で、山中は居ても立ってもいられなくなり、陸軍大学を退学、陸軍からも退役し、中国に支援に渡ったのです。

第二革命は、あえなく2か月で袁世凱に鎮圧されて、孫文や李烈鈞たちは日本に亡命してきました。この時の李烈鈞のインタビュー記事が、東京朝日新聞に掲載されています(大正二年十月七日)。インタビューを行ったのは、山中峯太郎で、山中未成という筆名で記事を書いています。この時の李は、中国のことは袁に任す、と語っていますが、それは袁を油断させる策略で、李はこのあと欧州に渡り、2年後に中国に戻り、第三革命を立ち上げ、討袁を成功させています。

李烈鈞 プレバト俳句添削

李たちが再び反旗を翻したのは、1915年12月25日で、中国ではこの12月25日は、討袁記念日とされています。袁世凱は1916年6月に急死し、辛亥革命はこれによって終結したことになりました。袁世凱にまつわる記念日としては、対華21か条を受け入れた5月9日が国恥記念日とされ、彼は中国でははなはだ不人気な政治家となっています。

袁世凱の死後10年間、北京には袁世凱の部将たちが入れ替わり立ち代わり軍閥として権力を維持し、南京の国民党政府が中国を再統一するのは、蒋介石による北伐を待たなければなりませんでした。

李烈鈞はその後、国民党の重鎮となり、張学良が起こした西安事件を裁く裁判長を務め、張には10年の実刑判決を下しています。1934年12月25日の討袁記念日には、”人酔我独醒(人は酔い我独り醒める)”で始まる五言絶句を遺しています。死亡したのは1946年2月、国共内戦が再開される4か月前、重慶においてでした。

山中の方は、戦後も作家として活躍し、最晩年には、「実録アジアの曙」という本を書き、第二第三革命を詳細に記述しています。